2週間に及ぶ連続勤務がようやく終了しようとしていた。
 東北新幹線八戸延伸に向けて、準備から開業まで、北に南に奔走した一週間だった。東北本線―――通称宇都宮線は、お疲れ様でした、と労いの言葉をかけながら、デスクでこめかみを抑えている上官へブラックコーヒーを渡す。すまない、と言いながらそれを受け取る様は、さすがに疲労が色濃く出ており、ここ2週間の慌ただしさを物語っている。
 最も多忙を極めたのは、実際に延伸をしたこの男だが、並行在来線である宇都宮線も、開業イベントに加えて新たに東北のローカル線として仲間入りを果たしたIGRいわて銀河鉄道にノウハウを教えなければならず、バタバタとした2週間だった。物覚えの良いIGRのおかげで大分助かったものの、東京圏の毎日の通勤通学ラッシュを支えながら、東北でのイベントに精を出すのは中々に労力を使った。東北新幹線が開業した時に比べれば負担は少ないはずだが、身体が妙にだるかった。
 年かな、と内心苦笑しながら、宇都宮線は自分用にも買っていた缶コーヒーのプルタブを引く。カシュ、と軽快な音がする。宇都宮線が缶コーヒーを勢いよく喉に流し込んだところで、最後の列車が終点に到着した、と管内の業務放送が響いた。
 これで本日の任務は終了となる。

「宇都宮も、ご苦労だったな」

 長いため息をつきながら、東北新幹線が言う。

「いえ、僕は別に。開業イベントしたり、IGRに寄ったりしたくらいですから」
「それでも、基本的に駅でのイベント類はほぼ対応しただろう。助かった、ありがとう」
「仕事ですからね」

 素直に上官からの感謝の言葉を受け取らないのはいつものことである。「それじゃ、今日のところは帰ります。お疲れ様でした」宇都宮線はそっけなくそう言うと、新幹線執務室を出ていった。

「さっすが宇都宮だねえ。随分と淡々としてる」

 奥のソファから聞こえてきた声は、上越新幹線のものである。
 ゆっくりと上半身を起こして、首をぐるりと東北新幹線の方へ向けた。眠たげな眼を何度が瞬かせて、ひとつ大きなあくびをした。
 上越新幹線の勤務は既に終了しているが、何をしていたのか、随分と前からここにいる。宇都宮線は気づいていなかったようだが、東北新幹線はあえて言う必要もないだろう、と伝えていなかった。気づかないとは、珍しい、と思ったが、それだけ疲れていたのかもしれない。

「悪いが相手をしていられなかったもんで、聞かずにいたが、何してるんだ?」
「別に相手して欲しいわけじゃないから安心しなよ。ちょっと信越から頼まれごとがあってさ」

 予想外の答えに、書類に目を通していた東北新幹線は顔を上げた。「信越?」あまり会うことのない、新潟の本線の名前を繰り返す。

「そう。宇都宮の勤務が終わったら教えてくれって言われてね。せっかく八戸に延伸するし美味しい駅弁買ってきてもらおうと思って!だって」
「自分で連絡すれば良いだろうに…。というかお前はそのためだけに残ってたのか?」
「まさか。これはついで。君も明日から一応連休だろ。お疲れの君を労って、最近見つけた美味しそうな居酒屋にでも連れていってあげようかと思って。あ、安心しなよ、そんな長く拘束するつもりはないからさ。どうせ君、帰ってから食べるものなんてないだろ」
「・・・・まあ、そうだな。今すぐに布団に潜り込みたい気持ちもあるが、腹が減っているのも事実だ」
「信越にも連絡できたし…、さ!そうと決まればさっさと行くよ!」

 上越新幹線の勢いに少々辟易したが、パーッと飲みたい気分でもあった東北新幹線は、その誘いにありがたく乗ることにする。先ほど出て行ったばかりの部下のことが頭を過り、連絡してみようかと携帯電話を取り出したが、彼の疲れた様子を思い出し、また別の機会にすることにした。





 宇都宮線が庁舎に戻れば、既に勤務を終えた首都圏の在来線たちが、談話室に集まって酒盛りをしているのが見えた。明日休みの者が多いのだろう。玄関からその様子を遠目に確認し、再び靴を履き直した。談話室横を通れば、常磐線や総武線に捕まることは目に見えていて、裏口を使うことにしたのだ。のろのろとした動きで裏口に回ると、ドアノブを回した。が、その手ごたえは途中で、ガチッ、と阻まれてしまう。鍵がかかっていた。時計を確認すると、午後23時を過ぎている。裏口の鍵は、23時には閉められてしまうということを久しぶりに思い出した。そもそもあまり使うことがないため、失念していたのだ。チッ、と舌打ちをして、玄関へ戻るかどうか考える。戻ったところで、談話室の奴らに捕まる運命は避けられず、眩暈がした。
 宇都宮線は、思わず裏口のドアに背を預けながらずるずるとしゃがみこんだ。眩暈がするのはどうやら気のせいではなく、偏頭痛さえ伴っているように感じられる。妙な倦怠感が全身を包んでいて、この場で横になってしまいたいくらいだった。
 だるい、と最初に認識したのは、一週間前の、丁度東北新幹線が八戸まで延伸した日だった。こんな時に、と無理矢理無かったことにして勤務し、その日は帰宅後すぐに眠ったのだが、朝になっても倦怠感は取れず、結局今日まで身体の不調は続いていた。
 病は気から、とはよく言ったもので、仕事が片付くまではそれほどつらいと感じていなかったはずなのに、今になってどっと疲れが押し寄せてきたのか、疲労感が急に大きくなった気がした。
 今は12月で、外の気温はどんどんと下がっている。このままここにいるわけにもいかないが、自力で移動するのは、非常に困難なように思われた。誰に連絡しよう、と思考を巡らせるが、高崎、と思ったところで停止してしまう。
 呼べない、と思った。
 何となく不調の原因はわかっている。わかっているが、認めたくない。高崎線を呼べば、すぐに飛んでくるだろうが、どうしても出来ない。しかし、高崎線以外に誰か思い当る者もおらず、もうここで夜を明かすか、と諦めかけたその時だった。
 ブーッ、と携帯電話が振動して、誰かからの着信を告げる。取り出すのが億劫で、放置を決め込むが、それは一向に鳴り止まない。諦めが悪い相手に、仕事の連絡かもしれない、と宇都宮線は仕方なしに通話ボタンを押した。

『おっせーよ早く出ろやお前今どこ?』
「・・・・悪いけど、相手してられるほど暇じゃないんだよね、切るよ」

 電話の相手を確かめずに出たのだが、通話口の向こう側から聞こえてくる声の主は、予想外の人物だった。

『切ってもいいけど、今お前しんどいだろ。無駄にプライドばっか高いお前のことだから高崎にも上官にも言えずに悶々としてるんだろうと予想して、特別に面倒見に行ってやる。うちの上官に勤務終わったって聞いたから庁舎に行ってみたのに酒盛りしてるおめでたい奴らしかいないし。いいから場所吐け』

 声の主は、信越本線だった。
 何か任務でも無い限り、信越本線が東京にいることはない。何故、と不思議に思ってすぐに、ああそうか、と思い当る。そうして、情けないことに、安堵した。
 裏口、と宇都宮線が言うと、わかった待ってろ、と早口に言い、信越本線からの電話は切れた。

 程なくして、宇都宮線が背を預けていた裏口の扉が乱暴に開けられ、宇都宮線はそのまま後ろに倒れ込む形となった。信越本線は既に庁舎の中にいたらしい。倒れ込んだ拍子に、床に頭を打ち付けるかと思われたが、咄嗟に信越本線が足を差し出したおかげで、何とかそれは免れた。「宇都宮、部屋どこだっけ」「…302」「げっ、3階かよ!面倒だからとりあえず俺らんとこでいっか」一応嫌だと抗議の声は発したが、聞こえていただろうに信越本線はそれを無視して、1階奥にある彼らの部屋へ、宇都宮線を半ば引きずるようにして連れていった。
 東京にある庁舎の中には、信越本線のような普段首都圏にいることのないJR東日本の在来線や、他会社の者がやってきた時のために、客間がいくつか用意してあった。そのうちの一室に、新潟の在来線がよく利用している部屋があり、ある程度生活必需品が備わっている。信越本線は、手際よく布団を敷くと、そこに宇都宮線を転がした。扱いが大分雑だが、過度に心配されるよりは幾分かマシだった。
 仰向けになり、部屋を見渡していると、それは突然来た。
 突然、何か込み上げてくるものがあって、気持ちが悪いのか泣きたいのか、怒りなのか哀しさなのか、宇都宮線にはわからない。
 上半身をがばりと起こし、両の手で口を覆っていると、信越本線にタオルを渡される。「落ち着け、大丈夫だから」そう言って子どもをあやすように、ゆっくりと、何度も背中を摩られる。パニック状態になっていたのだ、と気づいたのは、荒い自分の呼吸が耳に届いたからだった。信越が何度も何度も背中を摩り、大丈夫大丈夫、と繰り返す。

 不調の原因は、何となくわかっていた。
 前々から言われていたことだ。今更気にしている場合ではない、と頭ではわかっていたはずなのに、あの日、11月30日の夜中、盛岡駅から北に伸びていた自分の線区名が消え去り、新しい岩手の鉄道の名が刻まれた時、一瞬、世界が暗くなった気がした。
 上野から盛岡までは残っている。八戸から先だって、まだ残っている。けれど、盛岡から八戸までは、もう無い。八戸から先からも、いずれは東北本線の名が消える。
 線路は残っている。鉄道としての使命は、自分ではなくなるけれど、別の者が担ってくれる。地域の足としての役割は、果たし続ける。
 交通の在り方は、時代と共に変化してきた。鉄道が通って、電化され、特急が走って、新幹線が走った。各地で新線が生まれたり、廃線になったりした。国鉄からJRになる時に、第三セクターに譲渡された線区もあった。
 それなのに。
 何を今更。

 何を今更一部を失ったところで。



「大丈夫だ、東北本線はここにいる」



 信越本線の掌が温かい。抱きしめるわけでも、優しくて甘い言葉をかけてくれるわけでも無いけれど、何よりも心強い。
 信越本線は、もう随分と前に、一部を第三セクターに譲渡し、さらには一部区間を廃線とした。起点と終点が繋がっていない。鉄路は、繋がっていなければゴールまで辿り着けないのに。
 彼だけの力では、もうあの峠は越えられなくなったのだ。

「お前はまだここにいるし、これから先もまだまだやるべきことがある。盛岡から上野まで、やらなきゃならないことがたくさんある。東北本線がひとりでやってきたことを、これからは、東北上官と岩手の鉄道と一緒にやれるようになるんだ、悪いことばっかりじゃないだろ」

 一人じゃないよ。言い聞かせるように、信越本線がゆっくりと、力強く言う。
 ふ、と急に呼吸が楽になった気がした。それから何度か背中を摩っていた信越本線だったが、宇都宮線が落ち着いたことがわかったのだろう。ちょっと待ってろ、と声をかけて、離れていく。
 その隙に、宇都宮線は布団に倒れ込んだ。冷静になると、急に羞恥心が沸き起こってくる。遙か昔、よく行動を共にしていたとはいえ、もう随分と2人で話したことなどない。そんな相手に、醜態をさらした、と後悔する。タオルを顔に被せて、目を固く瞑った。頭は相変わらずズキズキと痛みを訴えてくる。

「おら、水。ちゃんとIGRだっているしさ、そのうち慣れるよ」
「・・・・そのうち」
「そ。そのうち。別にキロ数とか身体に関係なさそうなのに、厄介だよなー」

 経験者の信越線は、随分と明るい声で言った。

「どっちかっつーと、精神的な部分もあるんだろうなー、2回目はそんなつらくねーよ?」

 青森までの延伸を言っているのだろう。もう一度あるのだと思うと、今から憂鬱である。

「・・・・信越」
「うん?水?」
「・・・・ありがとう」

 来てくれて、助かった。
 宇都宮線一人では、対処が出来なかったに違いない。彼が来なければ、中々この不調の原因を認めることが出来なくて、もう少し先にもっとひどい状態で現れていたかもしれないと思うと、背筋が凍る思いがする。醜態をどこかで晒すだなんて、まっぴらごめんである。

「おう。間に合って良かった。とりあえずお前のことだから、仕事はきちんとこなすだろうなーと思って。連休確認しといた俺を褒めて」
「わー信越すごーい」
「元気そうだな、3階に帰れ」
「無理。まだ動けない。寝る」

 タイミングを計ったように、睡魔も訪れる。側に信越本線の気配を感じながら、宇都宮線の意識はどんどんと遠のいていく。
 そういえば信越本線には誰がついていてくれたのだろう、と思ったが、もう瞼も口も開かなかった。









 


3セク化大っ好きなんですすみません。信越の時は、あの人だろうなあと思っている。

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