「信越本線を探せ!って感じになったな」
東京駅の大会議室で日本全国の路線地図を広げながら感嘆とも取れる声でそう言ったのは、函館本線だった。北海道内の本線である彼が本州にいるのは珍しい。北海道新幹線開業直後ということもあって、北海道上官について、東京の新幹線車両センターを見にきたのだと言うが、どうやら今はやることがなくて暇らしい。先ほどからずっと、飽きもせず路線図を見下げている。
「・・・・いきなりなに」
「いやー、しばらく見ない間にわけわかんねえことになってんな、と。旅客だって戸惑うだろ。え?さっき終わったと思った信越本線にまた入った!みたいな」
「うっせーなー、高速鉄道には勝てないの!」
函館本線から少し離れたところで、パイプ椅子を軋ませながら不満そうな声で反論したのは信越本線である。
信越本線の起点も終点も東京にはない。
産直市をたまには見てこい、と上司に半ば追い出されるようにして新潟を出たのが、まだ朝8時を回った頃だった。上越線、越後線も一緒だったのだが、いつの間にかはぐれてしまい、早々に人がごった返す東京駅構内から逃げて裏へ回ったところで、思いもしない人物に遭遇したのである。
それが、信越本線にとっては随分と懐かしい、けれど記憶よりも幼い函館本線だった。
変わった姿に驚いたこともあって、久しぶり、でも、何やってんの、でも、第一声なんて何でも良かったのに、どうしてか喉につかえて何も出て来なかった。信越本線がそうしてまごついていることに気付いているのかいないのか、函館本線はつい昨日会ったばかりかのようなテンションで「ちょうどいいや、暇ならこの会議室連れてって。迷った」と言った。信越本線が断るなどとは思ってもいないようで、ずい、と会議室番号の書かれた紙を差し出してきて、結局信越本線はその紙切れを受け取ってしまったのだった。
信越本線とて東京駅の構造などほぼ知らなかったので、結局2人で右往左往する羽目になったのだが、何とか辿り着いた会議室には誰もいなかった。「ここで待ってろって言われててさ」と函館本線は言った。まだ開業して間もない北海道新幹線を連れて上京したものの、結局使用する設備の案内には、彼一人が連れて行かれたらしい。
暇を持て余した函館本線が目をつけたのは、会議室の棚に整然と並べられていた路線図で、じゃばらに折りたたまれたそれを広げた。路線図は年代別になっていて、函館本線は高菜から国鉄末期のものと、最新版を引っ張り出すと、長机に上下に並べ始めた。そうして一体何が楽しいのか、かれこれ20分くらい、路線図を北から南まで眺めていたのだが、突然「信越本線を探せ!って感じになったな」と、言ってきた。
「難所と言われた碓氷峠越えをしたかつてのお前はもうないんだもんなー、時代はえげつないな」
「はっ、そんなん今更だっつーの。残されてるだけマシだよ」
長野新幹線が開業する前は、難所と言われた碓氷峠を越えて上信越と関東を繋いだ、新潟の英雄だったこともあった。もちろんそのことに誇りを持っていたけれど、それを今なお掲げるほど傲慢でもない。その役割は自分の上官である上越新幹線や長野新幹線に譲り渡し、今は地域の足として日々の運行を行っている。
函館本線が視線を落としているのは、どうやら長野駅のあたりらしい。北陸新幹線開業により、さらに第三セクターに譲渡され、信越本線の名は切れ切れに路線図に存在している。
まもなく、北海道新幹線の新函館北斗駅が開業する。さらにその先、札幌までの延伸も計画されており、函館本線は、そんな自分たちの将来を信越本線の今の姿に重ねて見たのかもしれない。
「なるほど、それは一理あるな。俺のところはどんどん廃線になったし」
国鉄時代と現代の路線図を見比べると、一番変化したのは北海道である。採算度外視で敷設されていった路線が、かつての北海道には多数あった。今では随分と減ってしまっている。それでも、経営状況は依然として厳しく、今でも廃線や廃駅が続いている。
「俺も北陸本線も、無くなる可能性だってあるしな」
函館本線の声は、さらりとしていて、感情は特に読み取れなかった。
「無くなる、って」
「北陸新幹線が米原経由になったら北陸本線が無くなる可能性あるし、俺も札幌延伸した後にどうなるのか読めないし、その点お前は細切れになってっけどこれ以上無くなることは無いか」
函館本線の歴史は古い。日本の鉄道第一号である東海道本線が開業して、程なくして名称こそ現在とは違うものの、北の大地に開業した。日本の鉄道の黎明期から存在する、いわばパイオニアのような存在だ。その、函館本線の口から、自身の存在を危ぶむ声を聞くことになろうとは、信越本線とて思わなかった。
北陸本線にしても同じである。
「北陸本線は本当、わかんねえよなあ。敦賀が開業したら、北陸ほぼ走らないのに、果たして北陸本線のままなのかどうかって感じだし。まあ、でもあれか、通称と正式名称は使い分けられてるから残るか」
事実だけを述べるように淡々と言葉を続けていた函館本線が、ふいに口を引き結んだ。ふい、と上げられた視線が、ばちりと信越本線のそれと合う。
「怒った?」
「・・・・は?」
「北陸本線の話。変な顔してる」
「いや、俺が怒る意味がないし」
「変わんねえよなあ」
そういうとこ、と函館本線が少しばかり呆れたような、けれどどこか懐かしむように目を細めるので、信越本線は眉根を寄せた。「何が?」聞きたくないような気もするけれど、だんまりを決め込むのも負けのような気持ちになって、信越本線は棘を含んだ口調で問う。
「昔っから、こと北陸本線の話になると素直にならないとこ」
「・・・・宇都宮よりマシ」
「いいや、ある意味東北本線はわかりやすいから、お前の方が意地っ張りだよ」
函館本線も、東海道本線も、昔をよく覚えているから苦手だった。
そして誰よりも歴史の長い彼らは、時代との折り合いの付け方も一段と上手くて、色々なものを無理矢理飲み込んだ自分との違いを思い知る。
不変でいることの大変さを、信越本線はよく知っているつもりだが、こうして彼らと対峙すると、それを実感せざるを得ない。
「あの子はよく頑張った、って、言ってたぞ。切り開いて、走り続けて、頂点を見て、譲り渡して。一人でよく耐えた。…上手くやった、って」
まるで信越本線の心情を読み取ったかのように、函館本線はそんなことを言った。
誰が言ったのか、など聞かずともわかってしまう。
厳密に言えば、別に一人ではなかった。たくさんの同じ使命を持った鉄道が、時代に合わせて支え合いながら社会に対する責任だとか人々の期待だとかを背負ってきて、あるいは背負うものを分担したりもした。
鉄道がもつ使命は昔から変わらない。
ただ、先頭を走る者は、時代と共に変わっていく。だから、信越本線も譲り渡しただけなのだ。
それだけのことで、何も褒められるようなことはしていない。
そう思っているけれど。
どこかで誰かに、よくやった、と労ってもらいたかったのも事実だった。
普段、肝心なことは言わない癖に、こういう時に信越本線が欲しかった的確な言葉をくれるあたりが、本当に憎らしい。
「・・・・北陸本線は、」
「うん?」
「昔から、何も、言わないから!そういうところが気に食わない!」
「ははは、満更でもないだろうに」
「笑いごとじゃない!」
「信越本線や東北本線は意外と察しが良いからなー、言わなくなったの、お前のせいなんじゃねえの?」
「いやいや全然、全然わかりませんし心外ですけど!?」
ははは、と函館本線がもう一度笑うのと、はぐれた信越本線を探して上越線が顔を出したのはほぼ同時だった。鉄の扉の向こうから顔を出した彼は、信越本線の姿を認めるなり、何も言わずにつかつかと部屋の中へ入り込んできて、がしりと信越本線のトレードマークであるマフラーを鷲掴みにする。「仕事を堂々とサボるとは良い度胸だな」と静かな声で告げられれば、もちろん信越本線には返す言葉もない。行くぞ、と掴んだままのマフラーを勢いよく引きながら、上越線は歩き出し、信越本線はそれに従うしかなかった。
その様子を可笑しそうに笑いを噛み殺しながら見ていた函館本線が、ひらひらと振った右手を、扉が閉まる直前に見た気がしたが、挨拶をする暇は無かった。廊下に引きずり出された信越本線がようやく解放されたのは、東京駅事務室の出口まで来てからだ。そこには越後線も来ていて、「何してたんだよ」と呆れ声で尋ねてくる。
「昔話を少々」
「昔って、あそこにいたの、新線か何かじゃないのか」
上越線が驚く。函館本線が幾分か幼い姿だったので、わからなかったらしい。
人の移動手段は、鉄道の在り方は、時代と共に変化する。
変化は、少し怖い。
だからそういう時は、昔から変わらない姿を思い浮かべて、安心する。
信越本線はゆっくりと瞼を閉じた。
詰襟姿が揺らめいている。
ぱちぱちと瞬きを繰り返すとその姿は一瞬で消えてしまうほど、曖昧な存在のように思うのに、瞼を閉じればすぐに思い出せる。
それに安心して、早い流れに身を任せていられるのだ。
何でもない、と、自分に言い聞かせるように、信越本線は笑った。