鼻歌が聞こえる。
 ある時一世を風靡した歌だった。人々は皆この歌を口ずさみ、未来に期待を寄せていた。
 ここは新橋駅前の小さな居酒屋である。酒を酌み交わすサラリーマンたちの喧騒に紛れて、その歌はまっすぐに東海道本線の元へ届いた。鼻歌を歌う張本人は、縦長の店の真ん中あたり、壁際の二人掛けの席で楽しそうに焼酎を煽っている。
 店は繁盛していた。外に出されているテーブルも埋まっていて、引き戸は解放されている。あんな風に歌っていては周囲に迷惑ではなかろうか、と思うのだが、サラリーマンたちはまったく気にかけていない。あれだけ世間で流行った歌とは言え、今ここにいる者たちは誰も知らないのだろう。
 しばし店の入り口で様子を見ていた東海道本線だったが、すぐに男は彼に気付き、ちょいと片手で手招きする。はあ、と小さく息をひとつ吐いて、東海道本線は店内へ足を踏み入れた。古びた木製の小さな椅子に腰かけると、ぎしりと荷重に軋む音がする。

「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり」
「愛宕の山に入り残る月を旅路の友として」
「良い歌ですよねえ、月に代わって貴方を友としてよく出かけたものです」

 あれ違うなこの場合は友は私なのかな?男はことりと首を傾げた。かんぱーい、東海道本線が腰を落ち着けて間もないというのに、勝手に焼酎の入ったグラスを彼の前に置き、カチンとガラス同士をぶつけてくる。

「本田さん…貴方、兄さんに会いましたね?」
「貴方、日本で一番目の鉄道でしょう?お兄さんなんていました?」
「…東海道新幹線です」
「ん?彼なら会いましたねえ。こーんな小さかったのに、こーんなに大きくなってましたよ」

 足元から手が伸ばせる目一杯の高さまで右手をひらひらと上下に動かし、何が面白いのか本田と呼ばれた男はころころと笑う。

「小さい頃もありましたけどね、貴方と最後にあった時は既に東海道新幹線として世に出ていたでしょうが」
「ふふふ、そうでしたかね、そうですね」
「…酔っ払い」
「そりゃ酔いますよお、貴方と新橋駅で飲むなんて、随分と久方ぶりですから」
「の、ふりするのやめてもらえます?」

 本田はぱちりと大きく目を開いた。可愛くなくなりました?先程までの間延びした口調はどこへやら、早口にそんなことを言う。
 本田菊。この国の化身なのか、人々の思念なのか。この国が出来た時からいるというこの老人は、東海道本線が知る限り年を取らない。おそらくは自分たちと同じような存在なのだろう、とは理解しているものの、よくわかっていない。
 東海道本線が生まれたばかりの明治期から戦時中までは、頻繁に見かけていたと記憶している。国の首相やら大臣やらと連れだって、あちこちに顔を出していた。あの頃は本田の存在を少なからず認める者たちがいて、本田もそれに応えていた。今はどうなのか、東海道本線には知る由もない。何故なら、自分が国の統治下から外されて四半世紀過ぎている。

「そんなに怒らないでください。私だって会うつもりは無かったですよ。ただ、ちょっと大阪行きの新幹線を見たくなって、東京駅にふらりと立ち寄ったら、たまたまあの子もいたんです」

 いまや日本の新幹線の代表とも言える東海道新幹線を、あの子、などと言えるのはこの男くらいだろう。本田の前では、東海道本線も東海道新幹線も、赤子に等しい。
 元々本田はそう頻繁に鉄道宿舎に顔を出していたわけではない。国鉄時代は割と繋がりが強かったとは言え、国の化身と一路線の化身が一対一で会うことなど早々ない。日本初の鉄道路線である東海道本線や日本初の地下鉄である銀座線は、何かと顔を合わす機会も多かったが、その他の路線はいくら国鉄や営団の頃でもほとんど会ったことがない者もいるだろう。自動車が溢れかえる前、鉄道が日本の長距離移動手段の要だった頃、しょっちゅう駅には来ていたが、見かけても気づかない者も多かったに違いない。知らない方が幸せだな、と東海道本線も特に何も言わなかった。
 国鉄が分割民営化されてからは、ほとんど接点が無くなった。ましてや一在来線に過ぎない東海道本線は、本田を見かける機会などゼロに等しかった。
 そうして存在も忘れかけていたというのに、今日突然東海道新幹線から「お前、日本を覚えているか?」などと言われたものだから驚いた。「この国は随分と前から日本国だと認識していますが」と真面目に返すと、違うホンダの方だ、と彼が言った。正直、兄が本田のことを覚えているとは思ってもいなかった東海道本線は、一拍返事をするのが遅れてしまい、妙な間が空いた。はい、とも、いいえ、とも答えられず、本田さんとは…と言葉を濁そうとしたところで、京浜東北線が慌ただしく入ってきた。トラブルがあったらしい。ほっと胸を撫で下ろし、東海道本線は、新幹線の執務室を後にした。
 ダイヤの乱れが正常に戻るまで働き続け、東海道本線がようやく一息ついたのは、既に午後6時を回ってからだった。昼食を食べ損ねたことに気付き、腹を満たそうと携帯電話を片手に外に出ると、見慣れない電話番号から着信があった。誰だろう、と不審に思いつつも一旦はコールが切れるのを待ってみる。切れたのを見届けてから着信履歴を見れば、なんと同じ番号から続けて10回もコールがかかってきていたことを知る。何か緊急の連絡だろうか、とかけ直すと、想いも寄らない人物、つまりは本田が出たのである。

「一応聞きますが、どうやって番号調べたんですか」
「一応言っておきますけど、私がこの国で手に入れられない情報なんてほぼ無いですよ?」

 聞いただけ無駄だった。
 東海道本線は諦めて焼酎をぐびりと飲み干す。相変わらず良い飲みっぷりです、と本田は嬉しそうに二杯目を注いでいく。酒と水の割合が可笑しいような気もするが、つっこむのも億劫だった。

「よく飲みましたよね、銀座さんと、あとはつばめさんと」
「つばめは飲んでません。常磐か誰かと勘違いしてませんか」
「あれそうでしたっけ。常磐と間違うなんてことしないですよ。つばめはキャラが強烈でしたから。あの子も最近頑張ってますよね、鹿児島中央まであっという間だ。ただし博多からですけど」

 東京から乗る人の気がしれません、本田は悪びれもせずにそう言った。

「間もなく北海道新幹線も開業しますけど、4時間が限界ですよ。老体には無理です」
「じゃあ4時間の壁を突破した秋田上官を褒めてあげてください」
「うん、すごいすごい。彼には会ったことない気がしますが」

 本田は店員を呼び止めると、いくつかつまみを注文した。見た目は年若い青年だが、頼んでいくものは周囲のサラリーマンたちと何ら変わりない。とんでもない存在のはずなのに、この居酒屋に馴染んでいる。

「それで、何か用ですか?」

 東海道本線からの電話に出た本田は、一方的に時間と場所だけ伝えると、早々に電話を切った。慌ててかけ直してみても、無機質な音声が、電源が切れているかあるいは電波の届かないところにいると伝えてくるだけで、それ以降繋がらなかった。仕方なしにこうして現地まで来てみたものの、何をするわけでもなく楽しそうに酒を飲んでいるだけである。しびれを切らして東海道本線が目的を尋ねると、本田は少し考えて見せた。

「用はないです」
「うそだろ!?」
「ないですよー。貴方のお兄さんに会ってしまったので、ガラにもなくセンチメンタルな気分になったというか。そういえば日本の鉄道第一号くんは元気かなーと気になってなんとなく」

 なんとなくで10回もかけてこないで欲しいしなんとなくで人の携帯番号を調べないでほしい、と東海道本線は思ったが、本田には関係ないことだろう。項垂れる東海道本線を面白そうに指差して笑っている。問い詰めたところで何も出てこないに違いないと悟った東海道本線は、大人しく食事にありつくことにした。幸いなことに腹は減っている。本田とここで食事をする理由としては十分だ。
 どうでも良い話をした。およそ鉄道にも国政にも関係のない話もした。昔話もぽつりぽつりとしながら、あらかた料理を食べつくし、本田が入れていたという焼酎のボトルも二本空になったところで、本田が思い出したように言った。

「時代は変わりましたね」

 いつからの話をしているのか、東海道本線にはわかりかねたが、何となく聞いてはいけないような気がして、黙っていた。

「日本のインフラは、急成長をしました。インフラ整備があっという間に進んで、この国は元気になった。世界に誇れるようになった。この国の技術者たちはすごかった。だけど、バブルは弾けて不景気になって、未曽有の災害もあった。それでも不思議ですね、国は続いていく」

 本田はそこで言葉を区切った。自分はこれからも続いていく、ということが言いたいのか。東海道本線は、やはり言葉を挟めなかった。

「技術は日々進化していて、これからもあっと驚くような発明があるんでしょう。貴方が走った時のような、貴方のお兄さんが走ったときのような、人々の生活が変わる発明が、これからもあるんでしょう」

 負けないでくださいね、と本田が続ける。何に、とか、誰に、とか、そんなつまらないことは聞いてはいけないような気がした。ただの直感だが、きっと兄には言わなかった言葉だ、と思う。
 この国の未来を、別にこの男が担っているわけではない。本田にはそんな力は、きっとない。この国の民が向かう形に合わせて、この男は変わっていく。
 自分たちはそういうわけにはいかないのだ、とこの時東海道本線は漠然と思った。この国の民が、鉄道に代わる何かを見つければ、その新しい何かに役目を渡すだけなのである。在来線が新幹線に役目を渡したように。役目を終えて、名を変え地元に譲られたように。

「本田さん、貴方、随分臆病になりましたね」
「丸くなったと言ってください」

 正面から貴方たちを鼓舞する立場じゃなくなってしまっただけです。
 そう言って本田は―――日本国は笑った。

「鉄道の栄えある未来を祈念して、乾杯」

 手にしたままの東海道本線のグラスに、カチン、と本田のグラスが当たる。
 有難いことだ、と東海道本線はそれにゆっくりと口づけた。



旅路の友




   



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