見覚えのある男が立っていた。
東海道新幹線は、オリンピックの開催地に決まり、興奮状態の人々の中で、一人静謐な空気を纏った男を見た。目を引いたのは、その男の姿に見覚えがあったからというよりは、熱気溢れる人ごみの中で、静かに佇む姿が違う雰囲気を醸し出していたからだった。
東海道新幹線は、1964年の東京オリンピック開幕を目指して開業した高速鉄道である。2020年のオリンピックの開催地が再び東京に決まり、東海道新幹線の周辺も沸き起こっていた。東海道新幹線は妙な気持ちで、浮かれる東京の街を、東海道新幹線の東京駅ホームから見下げていた。
そんな折に、ホームに佇む男を見かけたのである。
着物姿で背筋を伸ばして凛と立つ小柄な男だ。じい、と目を凝らしてみて、どうにも見覚えがあると感じた。どこだったろう、と記憶の糸を手繰り寄せるが中々出てこない。彼の側を、制服姿の駅員が通っていく。ふいに、何かがカチッと音を立てて噛み合った気がした。和装姿の男が、白い軍服に変身する。そうだ、あの男は確か、ホンダと言った。東海道本線が連れてきて、確かに挨拶した気がする。記憶は随分と昔のもののようだった。もう少し、と記憶の糸をさらに手繰る。おめでとうございます、とそれは嬉しそうに笑うあの男の姿が脳裏に蘇る。
「ご立派になられましたね」
気づかれていないだろうと踏んでいたが、男はゆっくりと振り返り、東海道新幹線に向かってそう告げた。姿はまるで変わっていない。人間ではないことは明白だった。東海道新幹線が言葉を発せずにいると、男は困ったように少しだけ笑った。
「あの日、貴方が開業した日のこと、とてもよく覚えています。敗戦からただがむしゃらに成長を目指していて、貴方はその象徴だった。貴方が走ったから、この国は世界に向けてまた誇れるようになった」
東海道新幹線はまだ何も言わない。雪崩れ込んでくる記憶の処理が追いついていかなかった。熱気に溢れる東京の喧騒が、どこか遠くに感じている。
初めまして、おや、まだこんなに小さい。不安なこともあるでしょうが、大丈夫。人が望む限り、私たちのような存在は生きてゆけます。貴方はきっとこの先、人が望みつづける存在になる。
優しく微笑む男の姿が脳内にチラついている。隣で笑っているのはおそらく東海道本線と、今はメトロの銀座線だろうか。二人共帯刀姿である。
不安な心持ちで何度も東海道本線を見上げているのが、幼き頃の自分であることくらいわかっているが、しかしあのホンダという男のことが上手く思い出せなかった。
「混乱させていますね。ごめんなさい。貴方たちが国から切り離された時に、私の存在は邪魔になるかと思ったので、あまり接触しないように気を付けてはいたんですが」
混乱させていますね。
記憶の中のこの男も同じことを言った。怖気づいている自分を宥めるためだったのだろう。東海道本線と何事かひそひそと話し合い、再び幼き日の東海道新幹線へ向き直る。目線の高さが同じになるようしゃがみこみ、安心させるようにふわりと微笑む。
私は、本田菊と言います。日本と呼ぶ人もいますが、貴方にはこっちの方が良いでしょう。まだこの国に来て日が浅いですから、わからないことがあれば何でも聞いてくださいね。本田を呼んでいただければいつでも行きますから。
「に、ほん」
東海道新幹線の口から洩れた言葉を、男は拾い上げたようだった。お久しぶりです、と頭を下げる。急なことに思考が追い付いていかない東海道新幹線に、ゆっくりと男は近づいてくる。
「本当に、ご立派に、なられましたね」
懐かしむように、男は東海道新幹線に触れた。そして、N700Aの奥に並ぶ他の新幹線や在来線に目を向ける。この国の交通網は強い、貴方たちが経済を支えてきた。ぽつりとそんなことを呟いた。
自動車や飛行機が台頭してきて久しい。地方では、鉄道の存在意義が問われている。一兆円の売り上げを叩き出そうとも、甘えなど許されない。日本国有鉄道が民営化され、四半世紀が経過した。ドル箱路線と言われる東海道新幹線や、日本の心臓部首都圏の在来線以外の鉄道は、かつてのような繁栄を見せてはいない。
東海道新幹線は、自分は鉄道の未来なのだと言い聞かせている。そしてそれはきっと、嘘ではない。過去の栄華も含めて、未来なのだ。
東海道新幹線の目の前にいる男は、日本の鉄道の黎明期から、それこそ全てを見てきた男である。
2020年の東京オリンピックに向けて沸き起こる興奮の渦の中、どこか妙に冷めた自分がいたのは、それこそ日本全土が急成長を成し遂げ、世界にこの国を誇ったあの1964年と重ねて比較してしまっていたからなのかもしれない。
「まだまだ、期待しています。これからも、ずっと見ていますから」
そう言うと男は東海道新幹線から離れていった。
一拍空けて東海道新幹線が振り返った視線の先に、もう男の姿はない。
この国の全てを見てきた男が、期待している。まだまだ、高速鉄道にはやれることがある。
ホームのアスファルトに張り付いていた足を引き上げると、東海道新幹線は軽やかに踵を返していった。