その昔、ある男が困ったように弱く笑い、お前は知らなくていいよこんなもの、と言った。
 子ども扱いされているような、こちらに来るなと拒絶されているような、そういう気持ちになって悔しかったけれど、自分には彼が何故そんな風に笑うのかわからなくて、結局そちら側には踏み出せなかった。
 そうか、あの時あいつは。
 こういう気持ちだったのだろうか。





水底


 め




 
 北陸新幹線金沢延伸に向けて、第三セクターへ譲渡となる区間が発生する信越本線が、日に日に業務に追われていくのを見ていれば、嫌でもその足音は側で聞こえてくる。待ち望んだ新幹線の開業に、北陸方面が浮足立っているのも知っている。上越新幹線が開業するときは、教育担当として慌ただしい毎日を送っていたので街の様子など見る余裕もなかった上越線だが、遠いとはいえども同じ県内を走る北陸新幹線金沢延伸は、少なからず新潟地方にも変化をもたらそうとしていて、その雰囲気を肌で感じていた。
 上司たる上越新幹線も、高崎まで並走する自身の運行本数がどうやら減るらしい、と嘆いて愚痴を言いつつも、降って来る業務は増える一方で、どうやら塞ぎ込んでいる時間もないらしい。
 東京―大宮間のボトルネックについては、長野新幹線―――改め北陸新幹線の本数を増やすとなると、上越新幹線を間引くより他ない。東北の方を減らしてよ!と上越新幹線は喚いていたが、越後湯沢まで上越新幹線、そこから北越急行線を経由して金沢へ、というルートも廃止になり、人々が北陸新幹線で北陸地方を目指すようになることを考えると、それは自然な流れなのだった。

「どうして僕が北陸新幹線開業のセレモニーに出なきゃならないんだと思う!?ねえ先輩このひどい仕打ちどう思う!?」

 上越線の他には誰もいない新潟支社の会議室で、上司であるはずの上越新幹線が、飽きもせず北陸新幹線金沢延伸について泣き言を言った。泣き言を言う元気があるうちは大丈夫だろう、とは思うものの、上官たる立場の者がこんな様子で大丈夫なのかと心配になるが、新潟支社の在来線たちにとっては見慣れた光景でも、高崎線の話から想像するに、首都圏の在来線たちの前ではそんな様子は見せていないようなので良しとする。はあ、とため息をつくと、上越線は会議室の長机に突っ伏している自分の上司の後頭部を思い切り引っ叩いた。

「お前は新潟支社管内で一番位が高い路線なんだから当然だろ!しゃきっとしろ!」
「先輩厳しい!慰めてくれたっていいじゃん!何で僕が上越妙高と糸魚川に顔出さなきゃなんないの!?大体糸魚川は西日本じゃん!山陽で良くない!?」

 どうやら開業日にそれぞれの駅で行われるセレモニーへ顔を出すことを渋っているらしい。確か東京駅での出発式にも顔を出せと上役から言われていたはずなので、当日は上越新幹線のダイヤ改正もあるというのに、北陸新幹線絡みの仕事に追われることになるのだろう。

「新潟県の駅なんだから、全然関係のない山陽上官を呼んだって仕方ないだろう。なら、信越や北陸と変わってもらえばいいんじゃないか」

 今はまだ脇野田駅だが、上越妙高駅と改称されるその駅には信越本線が、糸魚川駅は北陸本線が通っている。北陸新幹線の延伸に伴い、どちらも経営移管されるが、元々は彼らのテリトリーなのだから、と上越線は提案する。
 意地の悪い質問だな、と上越線は我ながら思うが、これでその話に乗ってくるようであれば、上越新幹線の根性を叩き直さなければならない。
 候補生の頃に退行したように泣き言を連ねていた上越新幹線が、上越線の言葉を受け取って、ぴたりと動きを止める。

「それはさせないよ」

 顔は伏せたままだが、芯のある声で、彼が言う。

「じゃあ、上官が出るしかないな」
「…、…先輩、わかってて言ってるでしょ」
「お前だってわかってて最初から山陽上官の名前しか出さなかっただろ」

 す、と上越新幹線が顔を上げる。すらりと長い両腕を支えにするように上体を起こし、上越線に視線を寄こした。
 壁にもたれかかる上越線の頭のてっぺんからつま先まで、這うように視線を彷徨わせた後、上越新幹線は何度か瞬きを繰り返した。何かを確かめているようにも見える。

「先輩あのね、」

 縋るように声を上げた上越新幹線は、いつかの幼い彼を思い起こさせた。
 東北新幹線と同時開業出来ないと決まったあの時、よく前も見えやしないふざけた髪型をしていた上越新幹線の前髪を切ってやった。泣き言を言わずに前を向けと、背中を押してやった日から、もう三十年以上経っているが、ついこの間のことのように思い出せる。
 さすがにこれ以上前髪を切ったらあのいけ好かなかったおぼっちゃま時代に戻す羽目になるなあ、と上越線が要らぬ心配をし始めたところで、上越新幹線が静かに首を振った。

「ごめん、何でもない」
「…そうか」
「うん」

 上越新幹線が言葉を飲み込んだのを見て、上越線は力なく笑った。前を向けと焚き付けている以上、ここで弱音を吐いてもいいぞと促すわけにもいかない。
 上越新幹線が何かを言いたそうに、一度口を開きかけたが、じっと上越線の顔を見つめただけだった。
 きゅ、と口を真一文字に結ぶと、何か意を決したように小さく頷き、あー!もうやだー!と言いながらも自分の鞄から書類を取り出して長机に乱暴に置く。書類には北陸新幹線開業記念セレモニーについて、と書かれている。

 東北新幹線から遅れを取った時。
 雪により初めて運休を出した時。
 地元住民から意見が上がった時。
 地震による脱線があった時。

 ひとりで走り出したこの上司が、それでもまだ少しだけ不安定で、少しだけ自分にもたれ掛かってくれたあの頃とは違い、今はもう十分ひとりでやっていけるだけの力がある。整備新幹線の計画も随分と具体化されてきて、よく言えば高速鉄道の栄えある未来の始まりが、悪く言えば在来線が担ってきた都市間輸送の終わりが、見えてきている。
 それでも、上越線は納得の上で過去に自分が担ってきたものをこの長身の上司に譲り渡してきたのだし、それを今更後悔するわけでもなければ、譲り渡した相手である上越新幹線と一緒に、彼の未来を嘆きたいわけでもない。
 嘆くわけにもいかない。
 北陸新幹線の延伸により、これからもっと本数は減らされるんだろうか、という彼の不安を、一緒に口にして泣いてやるわけにはいかない。

 自分が背負っていたものを、確かに受け継いだのだ。
 吐いた弱音を拾う役割は、自分ではない。

 上越線自身は仮に上越新幹線がここで弱音を吐いたところで受け入れないわけではないけれど、後から我に返った時、この新潟の星がきっと自己嫌悪に陥るだろうと思った。
 自分が譲り受けた道をそもそも作った張本人である上越線に、何をさせたのだろう、と。

 お前はこんなもの知らなくていいよ、と力なく笑ったいつかの信越本線も、きっと同じ気持ちだった。
 前を走る者と、置いて行かれる者は、どうしたって感情を共有できないし、可能な限り共有などしてほしくない、と思う。

 だから、どうした、の一言をかければきっと出て来るであろうそれを、上越線は引き出さない。きっと上越新幹線は上越線が何故そんな風に笑うのか、正確には理解出来ていないのだろうが、出来ればそんな感情は知らないままでいてほしい。

 かつての教え子だろうとかつての候補生だろうと、今は立派な高速鉄道で自分の上司になった男を見下げる。
 バチ、と視線がぶつかり合い、驚いて反射的に目を逸らした。逃げた、ように思われるだろうか、と悔いたところで後の祭りだ。ゆらり、と視界の端で上越新幹線の影が動く。立ち上がったのがわかった。

「先輩あのさ、」

 表情は見えないが、どうにもその声は少しだけ怒気を含んでいる。子どもように駄々をこねていた時のそれとは明らかに違う。
 なんだ、とぶっきらぼうに返しつつも、どうしてだか顔を向けられない。
 視界の端の大きな影が、さらに揺れたところで、ガチャリ、と金属音が響いた。部屋の扉が開かれた音だった。

「あーもう本当3月になるってのに何でこう雪が降るんだか!」
「羽越はどうせ風で止まってるから関係ないだろ?」
「そうだそうだー」
「おい越後も白新も羽越も同じようなもんだろうが、一番雪に対して文句言えるのは何故か運休にはならなかった俺だからな!」

 俄かに騒がしくなった室内に、上越新幹線がパイプ椅子へ再び腰を落ち着けたのを確認すると、上越線はほっと息を吐いた。もたれ掛けていた壁からその身を引きはがすと、上越新幹線から対角線上に離れたところへ腰かける。羽越本線、越後線、白新線と声が聞こえた順に適当に席についていくのを眺めていたが、最後に扉を閉めてやってきた信越本線と目があった。

「…何だよ?」
「いや、信越も大概だよなあと思って」
「しょうがなくね!?運休にしないって判断したのは指令だっつの!」

 今日の運行状況の話だと勘違いしたらしい信越本線は、上越線の言葉に反論する。

 東京―新潟間の都市間輸送の担い手としての役割を、まだまだひよっこに見えたであろう上越線へ信越本線が渡したとき、本線でもないのに与えられた任務の責任が重くて少なからず追い詰められていた自分を、大丈夫だと励ましたのはこの男だが、上越新幹線へさらにその役目を上越線から譲り渡したあの日も、上越線の弱音を引き取らず、困ったように笑ってただ背中を押したのもこの男だった。
 弱音を吐いてしまうことは簡単だが、そうしていたら、鉄路の化身としての矜持も一緒に吐き出してしまっていたかもしれない。
 そうして後から後悔するだろう、ということを、わかって言っていたのだろうか。
 知らなくていい、と言ったのだから、きっとわかっていたのだろうけれど。

 一体何を知らなくていい、と拒絶してくれたのか。
 なけなしの、残っていたプライドだろうか。
 そんなものは気にしていない、と立っているつもりだった自分が、意外と脆く崩れそうなことだろうか。

 知っちまったよ、と呼吸に紛れて呟く。
 一番離れたところにいるはずの上越新幹線が、どうしてかそれを拾って顔を歪ませたけれど、上越線がそれに気づくことはなかった。





W上越ってかわいいだけと見せかけて横から覗くと先輩が達観してそうで本当に怖い。

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