東海道本線が、自分を殺しに来る夢を見た。
 現実であったなら、少しは気も晴れただろうに。





 朝目が覚めると既にしんとした冷たさが現れていて、間もなく訪れる北海道の長い冬を感じさせた。昼と夜の気温差が激しい季節の変わり目は、霜も降りやすい。随分と古ぼけたベッドの中で、函館本線は目を覚まし、ああ今日は10度を下回ったな、と布団に包まったまま思った。
 何度目かに目覚まし時計が鳴り響いて、ようやくゆっくりと身体を起こす。みしり、と音が鳴ったような錯覚に陥るくらい、身体の筋肉が強張っている。寒くなると聞いていたのに、薄手の布団一枚で眠ってしまったせいで、無意識のうちに身体を強張らせていたのだろう。ひとつひとつの筋肉をほぐすように揉みながら、給湯室へ向かう。先に起きた誰かが沸かしていったらしいお湯が、薬缶からまだ湯気を立ち昇らせている。どうせ函館本線がそれを使わなかったところで、次に起きて来る誰かまではその熱は保てないだろう。函館本線は勝手に人様が沸かした湯を頂戴し、自分のカップへ注いでいく。寝起きに白湯が良い、と教えてくれた人は随分と前に亡くなったが、何となくその習慣はずっと続けていた。
 喉を通って五臓六腑に染みわたる優しい温度にほっと息をつき、日焼けして変に黄色くなった壁に無造作にかけられているカレンダーに目を向ける。

 昭和61年10月1日。
 あと、たった半年しかない。
 あと半年もすれば、日本の鉄道会社が大きく変わる。

「こーら鉄道さん、眉間にしわを寄せてると、誰も近寄って来なくなりますよー?」

 呑気な声が響いて、函館本線の目の前に、にゅっと男の掌が現れた。驚くでもなく、函館本線が振り返ると、そこには身支度もすっかり整えて出勤前の職員がいた。

「…朝から元気だなあ」
「鉄道さんが元気ないだけですよ。僕らより丈夫な身体を持ってるのに不思議だなあ」
「お前らより長く存在しなきゃいけない分、エネルギーは最小限に留めてんだよ」
「そうですか?この間いらっしゃってたお二人はなんだかとても元気良さそうに見えましたが。お酒結構な量を飲まれてましたよねえ」
「と、思うだろ、お前らと別れた後即ダウン」

 手の中に残る白湯を飲み干して、函館本線はそのまま共用棚に仕舞ってあるコートを取り出すと、ワイシャツの上に羽織る。制服のジャケットは自室に置きっぱなしだ。取りに戻るのが億劫だった。

「あれっ、ジャケットは、取りに行かなくていいんですか?」
「時間ないだろ、それより早く行くぞ」

 誰の物かわからないスニーカーに足を突っ込み、函館本線は非常口から外に出る。待ってください、と函館本線の後ろを慌てて追いかけてくる男の足音がバタバタと響く。

「うー、今年は雪、早いですかねえ」

 来年の春には入社10年目を迎えるはずのその男は、函館市内の高校を卒業し、そのまま国鉄に入社したという。元は運転士に憧れていたとのことだが、その夢は未だ敵わないまま、函館本線の小さな駅で駅職員として働いている。

 鉄道さん、と函館本線に親しみを込めて呼びかけてきた人間は、少し久しぶりだった。人よりも長い年月を生きる彼らにとっては、ほんの少しの間のことではあるけれど、ここ数年間の国鉄内部のあれこれは、少なからず路線である身の彼らにとっても影響していて、国鉄の幹部からむやみやたらと現場に顔を出さぬよう言われていた。北海道はまだしも、東京の方では連日暴動騒ぎにストライキ等、手に負えない状況が続いたと聞く。長閑な景色を走りながら、時代の濁流との差にどうにも辟易していた函館本線が、ふらりと降り立った駅にいた職員が、その男だった。
 改札口で函館本線に対応したその男は、はっとした表情をした後、恐る恐る尋ねてきた。もしかして、鉄道さん?久しぶりに投げられた興味と羨望の眼差しを、完全無視することなど誰に出来ただろう。函館本線は、思わず首を縦に振った。

 そうしてひと月ぶりくらいに言葉を交わした現場の職員と、いつの間にやら距離が少し縮まって、最近ではひとりと一路線で妙なことを始めた始末。
 函館本線!と正体を聞いて小躍りするように喜んだ男が、突拍子もないことを言ったのだった。僕、函館本線を歩いてみたいんですよ。駄目だと函館本線が即答したのは、危険が伴うためという真っ当な理由がひとつ、面倒くさそうだなと直感で思ったことがもうひとつの理由だった。さすがに線路は歩きませんよ、と男は笑い、朝の散歩をしましょう、と言った。それならばまあいいか、と、現場へ行くことを禁じられて時間を持て余していた函館本線は、その提案を承認した。
 とは言え、函館本線も彼も仕事がある以上、中々遠くまで歩きにはいけない。休みの日や夜勤明けの日を上手く活用し、ここ一年で相当な距離を歩いた。もちろん危険個所等は諦めて来たので、厳密に全て歩いたとは言えないが、少なくとも3分の2くらいは歩いただろう。始める前は億劫だったはずなのに、いざ始めてみれば何となく夢中になってしまうのだから、人間の脳と感情はよく出来ている。

 今日のコースは、その職員が務めている駅から南へ向かうものだった。近いところは最後にしよう、と最初に取り決めたのは職員の方だったが、突然昨日の夜、「明日は僕の駅からスタートで良いですか」とお願いされた。何故、と疑問に思ったものの、拒否するほどのことでもなく、理由は聞かずに函館本線はそれを了承した。
 そうして、現在に至る。
 ただ黙々と南下している。

「うーん、ちょっとペース上げますか。あと1時間でここの駅まで行きたくて」

 実に1時間ほど歩いたところで、職員は地図を広げて函館本線に言った。

「無理してそこまで行く必要ねえんじゃねえの」
「えー、どうせなら稼いでおきたいじゃないですか。ね、お願いします」

 職員は申し訳なさそうな顔をしつつも、引き下がるつもりはないようだった。大人しくて物腰やわらかなのに、自分の意思は強固なのである。はいはい、と函館本線は適当に返事をし、あとはほとんどしゃべらずに自分の路線を横目に見ながら、歩を進める。

 鉄道があるのに徒歩なんて。
 自動車が普及して随分と経つのに徒歩なんて。
 荒唐無稽で可笑しな話だが、函館本線は妙に気持ちが上がっていた。
 まだ舗装もされていないような土を踏みしめて、完成したばかりの駅舎を見に行っていた頃を思い出すからなのかもしれなかった。

 結局最後はほとんど全力疾走に近かった。自分のものとはサイズの違う靴に悪態をつきながら、函館本線が職員と共にホームへ駆け込むと、駅のホームでお客様の対応をしていたその駅の職員が函館本線たちに気づき、「もう来ないかと思ったよ!」と冗談交じりに言った。

「連絡してたのか?」
「あっ、はい、一応…」

 函館本線の問いに、肩で息をしながら同行者の職員が答える。まさに危機一髪間に合ったというところで、すぐに下り列車の到着を告げる放送が入った。既に並んでいるホーム上の客の後ろに適当に付く。

「ありがとうございました」

 職員が頭を下げた。何だよ改まって、函館本線が訝しそうに彼を覗き込むと、力なく頭を横に振った。

「昔から利用していた函館本線を、全部とは言えないですけれど歩いて見て回ることが出来て、とても幸せでした」

 そう告げる男の横顔は、涙を湛えていた。ぎょっとした函館本線は、慌ててハンカチを取り出そうとコートのポケットをまさぐったが、何も出てこない。それもそうだ、出発前に適当に手にしたコートである。線路の先に、列車の姿が見えてきた。程なくしてホームへ滑り込んで来るだろう。そのまま列車に乗る気なのだろうか、と函館本線が焦る気持ちなどお構いなしに、職員はやはり今にも溢れそうな涙を耐えているのだった。

「ちょ…、お前、ほんとにどうした?」
「ねえ、前に話した気がしますけど」

 返事をする気などないのか、職員はそんな風に函館本線に言った。

「僕、ずっと函館本線の運転士になりたかったんです。小さい頃からのあこがれで、だから例え駅の職員だとしても、ここで働けることは嬉しかったし、これからもずっとここで生きていくんだって思っていました」

 汽笛を鳴らして、列車が近づいて来る。ガタンゴトンと列車が揺れる音が、次第に大きくなっていく。



「東京に行きます」



 静かに、男が言った。え?と小さく呟いた函館本線の声は、ホームへ滑り込んできた列車の走行音でかき消される。

「知っているでしょう?国鉄改革。北海道では大幅な人員削減が起こると言われていますが、東京ならば働き口があるんだそうです。僕には難しいことがわからないですが、鉄道の仕事を続けるにはどうしたら良いか、ずっとずっと考えていました。今の北海道は車社会になりつつある。これからきっと、もっとそれは加速するでしょう。働き口が、いつまでもあるとは限らない」

 ぷしゅ、と空気が抜けるような音がして、列車の扉が開いた。ぱらぱらと降りる乗客を待ち、ホームで並んでいた客が次々と吸い込まれていく。函館本線も我に返り、ひとまず職員の背中を押して列車に乗ろうとしたが、動こうとする気配はない。

「…帰りません。間もなく来る特急に、妻と子どもが乗っています。僕はそれで、東京へ行きます」

 帰りません。
 もう一度そう言った職員は、まるで自分に言い聞かせているようだった。

「貴方を置いて、北海道を離れることを、どうか許してください。守るべきものがあるんです。僕だって、いられるのなら最後までここで鉄道の仕事をしたかった―――」

 列車は間もなく動き出してしまうだろう。茫然としたまま何も返せない函館本線の手を取ると、職員は一度一緒に列車に乗り、そうして自分はすぐに降りた。それとほとんど同時に扉が閉まり、列車はゆっくりと加速する。

「僕には出来ないけれど、ずっと、ずっと!」

 ここで走っていてください、最後はほとんど叫びに似ていた。



 自分は離れていくというのに、函館本線には走り続けろという。
 人間という生き物は、昔も今も、むかつくほどにわがままで自分勝手で、そして温かい。
 取り残される自分を待つのは、一体どんな運命なのだろう。



 東京が北海道から人を奪うというのなら、いっそのこと己のことだって。





「俺、いつかお前に殺されるのか?」
「はあ?」

 常連と言えるほど訪れる頻度は高くないが、それなりに飲んでいる居酒屋の座敷で、函館本線は呼び出した東海道本線と北陸本線と杯を交わしていた。労働しているとはいえども、そこは人間界のルールに似ているようで曖昧だ。大抵急遽呼び出しても集まれるあたり、良い身分だと思わなくもないけれど、場合によっては堅苦しい式典だの会合だのに呼び出されて自由も何もあったものではない状態になるのだから、その対価としては妥当だろう。
 民営化に向けて何だかんだと雑務を始め業務は多い。退廃的な環境を嘆いていた時期はとうに過ぎて、とにかくあと半年後の4月1日に向けての仕事に追われる日々だった。久しぶりに集まった3路線だが、函館本線が一番に店先の暖簾をくぐり、程なくして北陸本線が現れた。2人でビールを一杯飲み干したところで、東海道本線が到着する。ここは関東にある居酒屋なのに、一番近い者がどうしてか遅れがちなのは、函館本線が人の身を得てから解せていない現象である。
 そうして最後にやってきた東海道本線のビールが届くよりも先に、函館本線は言った。お前に殺されるのか?と。どうせこの面子で飲めば最後は酔いが回って意味の通じる話などする気も起こらなくなる。これを言いたいがためにわざわざ開いた会合だ。先に聞いてしまえと函館本線は突き付けたのだった。
 東海道本線は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。おやまあ、と間抜けな相槌を打ったのは北陸本線である。

「もう酔ってんのか?そんなに遅れてないよな?」

 東海道本線は函館本線ではなく、隣に座る北陸本線に問うた。

「この会が始まったのはさっきだけど、北海道からの列車の中で練習でもしてきたんじゃないか?」
「…そういやお前、どことなく陽気だな」
「やだなあ、俺はちょーっと練習してきただけ」
「……敦賀の方はどうでもよくて、ええと、なんだっけ、幌内は何て言った?」
「だから、俺はいつかお前に殺されんのかなあと」
「それは物理的な話か?俺は敦賀と違って刺したりする趣味はないぞ」
「もう刺さないしあれは趣味じゃなくて実験」
「いや実験でも刺すなよ。っつーか刺されて死ねるならそれでいいけど死なねえもんな。物理的っていうか概念の話」

 概念、と繰り返した東海道本線は理解に苦しんでいる。意味がわからない、と肩を竦め、ようやく届いたビールグラスをガツガツと2人のグラスにぶつけると、そのまま半分ほど飲み干した。

「何人東京に持ってかれんだろう」
「ああ、その話」

 函館本線の呟きに、何を言わんとしているのかわかったのだろう。東海道本線は突然興味が削がれたように少し乗り出していた上体を後ろの壁に預けた。代わりに北陸本線が、ずいと前に出る。

「なに、職員に恨み言も言われたの」
「恨み言いうような奴は残れないだろ。…鉄道の仕事がしたいから東京に行くんだってさ。北海道に残ったって仕事が無くなるかもしれないから。そりゃこれだけ馬鹿みたいに線路広げて赤字でも走らせてたんだから、経営がどうにもならないから廃線にします!って言ったところで人はうじゃうじゃ余るもんなあ。でもそうやって人がどんどんいなくなったら、最終的に鉄道って誰が走らせんだよって感じ」
「なるほどね、それで、東海道に殺される。ははっ、ないだろ」

 東海道本線は、壁に寄りかかったまま函館本線と北陸本線の会話を黙って聞いていた。口を挟める立場ではないと思っているわけではなく、単純にくだらないやり取りだと思っているのだろう。問いかけた函館本線自身も、くだらないと思っている。無い、と切り捨てた北陸本線も同意見なのだろう。思考回路が同じなのか、土台にある考えが似通っているからなのか、考え方の本質が近しい彼らとは感情の共有がすこぶる楽に出来る。

「やっぱ無いよなあ、めちゃくちゃ癪だけど東海道が殺しに来るなら全力で迎え撃ってやろうと思ってたのに。敦賀しかり」

 ガシ、と薄いビールグラスを齧るようにすれば、東海道本線にグラスを奪われる。すぐさま北陸本線が近くを通りかかった店員に追加のビールを注文した。

「函館から札幌に伸びる私鉄でも出来たら同じ鉄道に殺されるんだろうけど、これから先北海道に他の鉄道が出来ることはないだろ。ただの人口減少と自動車と飛行機だ」
「そういうことだ。残念だったな、殺してやれなくて」
「最ッッ悪」

 東京に行く、と涙を湛えて職員が言ったとき、これが時代の波かと思った。そういうものにはどうしたって逆らえないことくらい、函館本線が一番よくわかっている。人の都合で作られたたくさんの路線が、時代の波に飲まれて消えていった。
 出来た順番など関係ない。
 一番に走ったからと言って優遇されるわけでもない。

「って言ったってさ、お前は北海道では最後まで残るだろ」
「どうだか。函館と札幌を飛行機が驚くほど安価で移動可能になったら全部持って行かれるんじゃねえの。まあ、そうなったらそうなったで、どうしようもないしそれまでなんだけど」
「安心しろよ、そうなったら消えるのはたぶんお前だけじゃない」
「なるほど」

 頷いた函館本線に、でもさ、と北陸本線が続けた。

「東北新幹線が延伸して北海道中に走る可能性だってあるんじゃないのか?」
「お前、東海道新幹線開業の裏で国鉄が赤字に転落したの忘れたわけじゃないだろうな」
「兄貴の悪口ならその口塞ぐぞ」

 臨戦態勢に入りかけたところで、お待たせしました、と店員が両手いっぱいに料理を運んできた。丁度良いとばかりに東海道本線はそこからから揚げを行儀悪く手掴みすると、函館本線の口へ放り込んだ。あっつ!と熱を逃がすように口を開けたままにしていれば、2つ目、3つ目と続く。食べ物を粗末にしてはいけないと、貧困時代に叩き込まれたために、吐き出すわけにもいかないし、食べなければ死ぬような身体ではないが、腹が減っては戦が出来ぬ。函館本線は放り込まれた3つのから揚げをすり潰すように、奥歯を何度も噛み締めた。



 夢で見たように東海道本線に殺されることがないのなら、きっといつか時代の波に呑まれていくだけなのだろう。それは鉄道に代わるものなのか、はたまた地域の衰退か。

 ずっとここで走っていてください、と泣いた男の顔が、脳裏によぎる。
 永遠に、とは約束できないが、ただひとつわかっていることは、消えるその日まで走り続けるということだった。そうして、いくつもの路線が役目を全うしてきた。自分も、ただ同じように在るだけだろう。





結晶させるもの

時代がいつか変わるなら、せめて道標となる星くらい在りますように。




 


だて本線のICシール本に衝撃を受けて書いた。その日まで、頑張れ、開拓の星。

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