平穏な一日だった。 自路線の遅れもなく、接続先の各線の遅れもなく、駅でのトラブルもなく、実に平穏な一日だった。全てが平常通りの運行をしていることで、誰かに褒められることもないけれど、毎日がそうであれば他には何も望まない。いつも通りというのはこんなにも素晴らしいものだったか、と有楽町線が改めて実感するくらいには平穏で、何もない日だった。時計の針は間もなく午後5時になろうとしている。東京メトロの本社会議室の一角で、日比谷線と来週の予定を確認しつつ、残業も無さそうだから久しぶりに一杯引っ掛けよう、と周辺の居酒屋情報を検索していたところだった。 「有楽町!」 会議室の扉が勢いよく開き、壁にぶつかって跳ね返って閉まる。ゴン!という鈍い音がしたのは、きっと扉を開けた張本人に激突したからなのだろう。スマートフォンをいじっていた有楽町線の手が止まる。日比谷線も書類から顔を上げて扉を見つめたまま固まっていた。 平穏な一日だった。 が、明らかにそれをぶち壊される予感がする。扉が開いた一瞬で聞こえてきた有楽町線の名前を呼ぶ声は、控えめに言っても切羽詰まっている様子だった。 ガチャ、と再びドアノブが回る音がする。 と、ほぼ同時に有楽町が立ち上がり、驚くほどの速さで扉へ詰め寄った。 「…!?おい!有楽町!いるんだろ!開けろよ!」 「残念っ、ながらっ、内容によるねっ!」 「緊急事態!」 「却下!」 「何で!?」 扉に詰め寄った有楽町線は、渾身の力を込めて扉を押し返している。恐らくは凶報を連れてきたであろう輩をみすみすと中に入れるわけにはいかない。鍵をかけられるほどには閉められておらず、力は拮抗していた。扉の向こう側でわめいているのは南北線である。 「日比谷!手伝え!」 「…えー、でも何か南北も必死みたいだし、これほんとに押し返して大丈夫なやつ…?」 「いいから!後から何か言われたら定時で上がりましたって言っとけばいいだろ!」 最低!と南北線の悲鳴が聞こえる。仕方ない、と日比谷が腰を上げたところで、扉向こうの南北線が、「あ!丁度良いところに!」と嬉しそうな声を上げた。 「半蔵門!ちょっとこの扉思いっきり蹴って!」 「なになに?蹴る?思いっきり?何かわかんないけどオッケー!」 「ぎゃー!やめろ卑怯だぞ! 有楽町線が叫んだ、卑怯、の辺りでかくして部屋の外側から思い切り力が加えられ、危険を察知して避けた日比谷線とは裏腹に、有楽町線は真正面から扉を受け止めることになった。ガンッ!と先ほど南北に当たった時とは比べ物にならないような大きな音が響き渡る。扉向こうに人がいることは予想していなかったらしい半蔵門線が、蹴った扉から伝わる感触に、「…おや?」と首を傾げた。 「いやー、悪い助かった」 「そりゃ良かった。有楽町が伸びてるけどそれはいいの?」 「いいのいいの、逃げようとした有楽町が悪い。自業自得だよ」 額を抱えて蹲る有楽町線に、南北線が冷ややかな視線を送る。ほら、と差し出された手を、有楽町線は大人しく頼ることにし、引き上げられて立ち上がった。額は心臓を持ったかのようにドクドクと血管が波打っていて熱い。 南北線は本日夜勤明けだと聞いていた。朝方見かけたときにはそんなことを言っていたと記憶している。昼過ぎには宿舎に戻っていたはずだが、一体何をそんなに慌てていたのか。有楽町線は痛む額を抑えながら、非難めいた目で南北線を見遣る。 「お前、今日夜勤明けって言ってなかったっけ。何してんの?」 そうだよ、と南北線は人差し指を有楽町線の前に突き出した。仕事でもない俺がわざわざ本社まで来てやったのはひとえに有楽町のためであって!南北線は声を大きくした。別に頼んだわけでもなかった有楽町線は、はあ、と煮え切らない返事をする。曰く、お前しばらく副都心を銀座に近づけるなよ、と。はあ?と有楽町線は語尾を強めた。南北線の表情は、真剣そのものであった。冗談で言っているわけではないだろうし、そもそも些細なことでわざわざ非番の日に本社まで顔を出したりなどしないだろう。しかし告げられた内容に特に心当たりもなく、有楽町線は訝しげに眉を顰めた。副都心線の教育係を務めていたのは数年前のことであって、開業してからは自己責任で仕事をさせているし、そんなに口出しもしていない。どうして今更また俺が、という思いが顔に出ていたのだろう。南北線はゆっくりと話を再開する。 「今日の午後、同じく夜勤明けの副都心と一緒に遅めの昼飯でも食うか、って渋谷駅周辺をブラブラしてたら、どっかに出張に行ったらしい銀座と丸ノ内に遭遇してさ。工事の関係でちょっとだけ俺は丸ノ内と仕事の話になって、正味5分もしてないと思うんだけど、そうやって俺たちが目を離してた隙に、突然、銀座と副都心が険悪なムードになっててさ。何でか、銀座が滅茶苦茶怒ってたわけよ。何事かと俺も丸ノ内も驚いて動けなかったんだけど。副都心は全然謝る様子もなくて、違う違わないの押し問答。何の話なのか全然わかんなかったけど、副都心が最後に、『先輩は間違ってません』って静かに言ってさあ、銀座はそれに対して何も言わずに去ってっちゃって。ただならぬ様子だったから、一応、伝えに来た」 なるほど、と声を出したのは、有楽町線ではなく半蔵門線だった。本社に来る前に見かけた銀座線は確かに機嫌が悪そうで、近づかないでおこうと咄嗟に判断したらしい。日比谷線が心配そうに有楽町線と南北線の顔を交互に眺めている。 有楽町線は、額に当てた右手で握りこぶしを作った。そのままぐいぐいと額を強く押す。ズキズキと、額が痛む。ドアにぶつけた痛みなのか、心当たりを思い出して頭が悲鳴を上げているのかわからない。有楽町線のそんな様子に、心当たりがあるんだろ、と南北線が言った。 「ほら、聞いといて良かっただろ」 全然良くなかった。 まるでそれまでの平穏さと全て取り換えるみたいな凶報だった。そんなに平穏な一日を望むことは、高望みだったのだろうか。有楽町線は目を閉じて大きなため息をつく。 「いやー…出来れば聞きたくなかったかな」 重い足取りで向かった先の扉は、予想通り鍵がかけられていた。コン、と一度控えめにノックをしても、物音ひとつ返って来ない。はああ、とこの数十分で何度吐いたかわからないため息を出し切るように長く吐き、有楽町線はガシガシと頭をかいた。面倒くさい、と今ならまだ引き返せる。けれども、その選択を取れないのは、ひとえに後ろめたさがあったからだった。何となく副都心線が銀座線を怒らせた理由は思い当たる。そうして多分、副都心線には悪気などない。あの男はあれで意外と頭が良い。銀座線を怒らせない方法だっていくらでも知っていただろう。それなのに、怒らせる方を取った。「…うざー」女子高生のように呟いて、有楽町線は顔を上げると、ドンドン!と二度扉を叩く。返事はない。ドンドンドン!三度叩く。はい、と僅かに声がした。 「俺だけど」 「…」 「開けないとお前のことこれからずっと無視するよ」 たっぷり10秒は空いた。ガチャ、響いた音はドアノブを回す音ではなく、内側から鍵を開ける音。自分で開けろということなのだろう。有楽町線がゆっくりとドアノブを回していくと、急にドアが内側に引かれて、そのままたたらを踏んで部屋になだれ込んだ。床に激突するかと思われたが、ドアノブを掴んでいなかった左腕を力いっぱい引かれて踏み止まる。 「…悪い。っつかいきなり開けるなよ…」 見上げた副都心線の表情は、彼の背中から漏れてくる部屋の光が逆光となり、よく見えない。 「無視して先に耐えられなくなるのは先輩だと思うけど」 零れ落ちてきた言葉は、部屋の向こう側で有楽町線が投げかけたそれの返事だった。 副都心線がコーヒーを淹れるまでの間、2人は終始無言だった。副都心線は、有楽町線が自分を訪ねてきた理由などわかりきっているのだろうが、あえて話を振るわけでもない。 どうぞ、と渡されたカップは、見たことがない美しいフォルムの白磁物だった。 「…銀座と喧嘩したんだって?」 副都心線がコーヒーを淹れ終わるまでの間、どう切り出すかずっと考えていたはずなのに、結局口をついて出てきたのは、何の捻りもないストレートな問いだった。 「喧嘩というか、ただの意見の食い違いです」 大人なので、等という副都心線の声は、確かにいつもよりも落ち着いている。 「銀座さんと喧嘩しているのは先輩の方でしょう」 「…喧嘩は、してない」 「ふーん」 「っていうか、お前に話した記憶はないけど…、…まさかとは思うけど、いや…、わかってて、聞くけど、その件で銀座に何か言ったんじゃないよな?」 「変な聞き方しますね。それは、質問ですか?それとも、願望ですか?」 有楽町線は、銀座線と喧嘩をしているわけではない。ただ、少し意見がぶつかっていて、それが長引いて引くに引けなくなっている。東京メトロの中でも比較的外面は良く、自路線の接続先や乗り入れ先の他社率が高い有楽町線は、他者と波風を立てないことを好んでいて、無用な争いは避ける方だ。謝って済むのならば比較的簡単に頭は下げる方。有楽町線自身もそれをよく自覚しているが、どうしてか今回は中々引けないのだ。 どうしても、副都心線が絡んでくるといつも通りにいかない。 いつも通り、波風立たず、平穏に業務をこなして日々が流れていけば良い。それだけを願っているはずなのに、どうにも上手くいかない。 「…願望だよ。なあ副都心、銀座は俺たちの中で一番歴史があって経験も豊富で、道しるべで、間違ってないんだよ。多少、可笑しなところもあるけど、まあ丸ノ内もいるし、…でも、まあたまに俺は違うかなあと思うことも、あったりするわけで、でもそれは俺だけでいいんだよ。お前だって、俺のこと、どうしようもない大人だって言ってただろ。どっちが正しいかなんて、とっくにわかってるだろうに。子どもじゃあるまいし」 副都心線が、有楽町線をじっと見つめたまま、ことりと首を傾げる。 路線としてはきっと大体が同じ方向を向いている。きっと皆同じように出来ている。生まれて間もない路線たちならばまだしも、ある程度の年月を経れば、路線として向かう方向など決まってくる。ただ、どうしてか人型を取った以上、人間みたいな感情だとか思いだとか、そういう絶対必要なわけではないものも付随していて、それは路線ごとに異なっていたりする。有楽町線は、昔銀座線と丸ノ内線がそういうものでごちゃごちゃとしていたのを垣間見たことがあるし、歴史の中で色々とあったらしい他の私鉄組にもそういうものを見かけたりした。 けれど自分にはあまり関係のないものだとばかり思っていて、だからこそバランサーのような役目も担っているのだろうかなんて自惚れていたけれど、ここに来てそんな平穏な日常が少しずつ剥がれていくのを感じていた。 新線。副都心線。大人になった副都心線。 どうしようもないので、と副都心線が言った。 どうしようもないので教えてあげます、テーブルの上で組んでいた有楽町線の両手に、するりと副都心線の右手が這ってくる。ぐ、と込められた力は、抗いようもなく有楽町線よりも強く、半蔵門線といい何故最近の路線は発育が良いのだ、と有楽町線は舌打ちを打つ。 「僕にとって、貴方は全部正しく見えます」 副都心線が、空恐ろしいことを口にする。 「わかりますか。僕にとって、貴方は全部正しく見えるんですよ。本当は誰が正しいとか、ああこの人ほんとどうしようもない大人だなとか、面倒くさいなとか、そういうの全部考えた上で、貴方は正しく見える」 有楽町線よりも幾分か太く骨ばった指が、組んでいた有楽町線の両手をこじ開けて、絡めとるように指と指を交差する。ピリ、と痛みが走ったような気もしたが、有楽町線は自分の指に力を込めることも振りほどくこともしない。そうやって、何かを選択するのが億劫だった。 副都心線は、有楽町線の指を拘束していない方の肘をテーブルにつき、何だか面倒くさそうな表情をした顔をその掌に乗せている。先輩!とじゃれてくる時とは、似ても似つかない表情だった。 いつも通りでいいのに、とこんなところにまで不満を持つ己に、有楽町線はほとほと嫌気がさしてきた。だからと言って、どうにかしようと思えるほどの気力も器用さもない。 「どう見たって俺が間違ってる時もあると思うけど」 「それ、社会的に見て、の話をしてます?そりゃしょっちゅうそうでしょうよ」 「ひどい言われよう…」 それでもいいんですよ、と副都心線がやはりつまらなさそうに言った。 「それでも、それが先輩にとって正しいのなら、それが正しいんです」 「社会的な軸はどうした」 「要らないですよそんなもの。僕の世界は大体先輩だもん」 誇らしげに、また恐ろしいことを言う。有楽町線は乾いた笑いを漏らして、ごつん、とテーブルに突っ伏した。先ほど会議室で扉にぶつけた額が再び熱を持つ。最悪だなあ、とくぐもった声で漏らせば、そうでしょうね、と副都心線の声が返ってきた。 「銀座に謝りにいかないとなあ…」 「おや、随分早い降参ですね」 「だって、お前、それでもいいんだろ?」 「喧嘩の内容は知らないですので何とも言えないですけど、先輩がそれで良いなら良いんじゃないんですか?」 「お前も銀座と言い争いまでしたのに?」 「ほんとですよ。それでも別に、先輩が折れる方が良いって判断するなら従うまでです」 いつの間にかきつく絡め取られていた手は緩く解放されている。 それでも、有楽町線には、自ら力を込めることも引っ込めることも出来なかった。 見たことの無かったマグカップが、否応にも有楽町線の知る昨日とはどうやら違うらしいということを物語る。 |
外面は良いのに比較的クズな先輩と、上手に大人になった一途な後輩ほんと最高。 |