泣かないならいい、とあの人が言った。 電車から一歩外に出れば、むせ返るような熱気に包まれた。夏の嘘みたいに青い空と重量感のある白い入道雲が、ホームの向こう側の地平線の果てに見える。夏休みらしい子どもが、海水浴に来たのか、既に浮き輪を腰に巻き付けながら、甲高い声で童謡を歌いながら駆けていった。 信越本線が子どもの後を追うように階段を上って改札口へ顔を出すと、やる気がなさそうに職員が切符の確認をしている。子どもたちはそんな職員の態度など特に気にならないのか、さっさと切符を手渡すと、あっという間にいなくなってしまった。 信越本線の挨拶に、職員の男は僅かに顔を縦に振った。あれできっと頭を下げているつもりなのだろう。自分を敬えと言っているわけではなく、そういう些細な、だけれどこれからの世の中で必要となる気遣いみたいなものが、この組織の大半の人間は欠如している。親方日の丸とやや侮蔑気味に言われるのも仕方がない。 駅事務室には顔を出さなかった。与えられている宿舎の方へ向かう。今日は特にやることもないよ、と言われたので、何となく自路線の果てに来た。終点ではないけれど、ここで北陸本線に接続する。直江津、という表示や車内放送に、未だ少し反応してしまうのは、自分の原点とも言える名だからなのかもしれない。 銀色のドアノブを掴んで、ぎいぎい言わせながら木製の扉を押し開けて部屋に入る。雑然とした部屋の中に、ガラスコップが置かれている。冷やすためにグラスいっぱいに入れられた氷の山が、きらりと光る。ガラスコップの表面に汗はないところを見ると、つい先ほど入れたばかりなのだろう。こういうところで瞬時に滞在時間や存在の有無を確かめられるのは、最早特技のひとつになった。新潟では気遣いが出来てないと上越線に罵られるというのに。 ダブルボタンの制服のジャケットを脱いで椅子にかける。ふと机の上の書類に目が留まった。「西日本」という文字に、どくんとひとつ鼓動が大きく波打つ。 信越本線が、あまり知らない世界だ。 「あれ、信越、今日はこっちにいるんだったっけ」 声がして振り返ると、Yシャツ姿の北陸本線が部屋へ戻ってきたところだった。 「…やることないって言われたから、適当に電車乗って巡回してる」 「ひどい言われようだな。まあ俺も似たようなもんだけど。外は暑いしね。あ、そうだ信越もアイスコーヒー飲む?」 北陸本線は、小さな冷蔵庫からアイスコーヒーが入ったガラスピッチャーを取り出した。「飲む」と返事をしながらも、信越本線は机の上のアイスコーヒーを手に取った。 「そっちは俺のなんだけど」 「どっちだっていいだろ」 「まあ、いいけど…、うーん信越は昔からそうだよなあ」 自分用にと、もうひとつのグラスに氷を入れ、アイスコーヒーを注いでいく北陸本線の姿を見ながら、信越本線はわかっていながらも「何が」と問う。 「これが欲しい、とはあんまり言わなかったけど、俺のものはとにかく欲しがるだろ」 「目につくから仕方ない」 「えー?なら新しく入れたものでもいいじゃん」 ストローで一緒に空気を吸い込んだのか、ず、と大きな音を立てながら、信越本線はアイスコーヒーを吸い上げる。茶色い液体が、ピンク色をした半透明のストローの中を上がってくるのがわかる。ごくん、と飲み干すと、外気で火照っていた身体に冷たいものが流し込まれた気持ちよさと、妙な満足感があった。 仕方ないのだ。 本当に欲しいものは手に入らないのなら、欠片を集めていくしかない。これからは、それも難しくなるのかもしれないけれど。 「制服が変わるって聞いた?」 「それは俺たちの?それとも現場の?」 「俺たちの。カラフルすぎて面白いよな」 次の春で、国鉄は民営化される。赤字路線が増えすぎたことや、労使関係の悪化など、要因は様々な事が絡み合っていると聞くが、この巨大な組織が疲弊しているのは、一路線である信越本線の目から見ても明らかだった。 自分を管轄する組織が変わろうとレールが繋がる限りは走るのだろうし、むしろ国の上役から呼び出される面倒な招集会議なんかは減るのではないかと思うと、さっさと実現してほしいくらいだ。 「詰襟も時代錯誤って感じになってたし、楽しみだ」 北陸本線は笑った。 確かに、正装として詰襟を着ているものなど、所謂中高生くらいのもので、今となってはどうにもちぐはぐな恰好だったことは事実だった。 ただ、信越本線にとって、本線にだけ支給されるダブルボタンの制服は、あまりにも思い出がありすぎて、廃止となりますと言われたからといって、はいそうですかと素直に喜べなかった。 北陸本線のこの姿を見られるのも、あと数か月しかない。 同じ制服で隣に立つことも、まもなく叶わなくなる。 北陸本線は西日本、信越本線は東日本の会社の所管となり、接続するとは言えど業務を共に行うことはほとんどなくなるのだ。 組織が変わろうと自分のやることは変わらない。 けれど、決定的に変わるものもある。同じ組織の所属ではなくなるということが、あまり想像できなかった。 「これからも繋がりは深いんだろうけど、ある意味今の私鉄と同じような関係になるんだな、俺たち。完全に別会社だって言ってるし」 北陸本線は、とにかく愉快なようで、にこにこと笑っている。彼にとっては組織が変わることなどきっと些細なことで、信越本線のように所属組織が異なることに、不安などないのかもしれなかった。確かに、鉄道路線としてはこのまま経営が逼迫している組織に所属しているよりは、未来は明るいのかもしれない。将来の経営状況についても、幸いなことに本州会社はそれなりの利益が見込まれている。 不安の種が、そこじゃないことくらい、信越本線にもわかっている。そもそも、不安、というのも何か違うような気がした。夏の終わりの焦燥感に近い。差し出したら負けだ、というのもわかっている。ず、とひと際大きな音を立てて、アイスコーヒーを全て飲み干した。食道を通って体内に入っていく。ほ、と息を吐きだすと、少しだけ楽になったような気がした。 「制服って言えばさ、第二ボタンを貰うっていうイベント知ってる?」 北陸本線が、変わらず笑顔のまま言った。 「第二ボタン?」 「そう、例えば卒業式の日に、好きな人から制服の第二ボタンを貰うんだって」 聞いたことがあるような、と思いつつも、信越本線の知識には入っていない。ただの流行り事だろうと判断し、へえ、と興味なく返事をする。 「理由があるんだって。なんだと思う?」 「えー…、制服の製作工程で一番初めに縫い付けられるとか」 「なんで二番目からなんだよ。もっとね、人間らしい理由だったよ」 「人間らしい?」 北陸本線が、人間らしい、だとか、人間のここが好き、だとか言い始めた時は、大抵突拍子もない結論に結び付くことが多く、最終的に被害を被るのは大抵周囲の者だった。東海道本線然り、信越本線然り。ゆえに、経験値に基づいて、信越本線は身構える。 北陸本線は、すっと右腕を信越本線の方へ投げ出すと、左側の金ボタンを包むように掌を押し当てた。どくん、とまた心臓が跳ねる。全て伝わるのではないか、と思わず北陸本線の腕を払いのけそうになったが、「心臓があるだろ」という北陸本線の言葉に遮られた。 「…は?」 「心臓、ここに。それにね、一番近いからなんだって。可愛い理由だろ?」 「言われたのか?第二ボタンが欲しいって」 「ん?そうそう。卒業とかいう制度はないでしょうけど万が一そうなったらくださいね、って。金沢の高校生から。その時は、残念ながら卒業とかはないなあ、って言ったんだけど、まさかの似たようなことになったっていう」 「…せっかくだから渡してやれよ」 人間の女は強い。そうやって思い出を貰って次に行く。中途半端な優しさをよすがにして終わりがないよりは、よっぽど賢いやり方に思えた。 信越本線の言葉に、北陸本線の目が少しばかり細められた。これはあまりよろしくない、と信越本線が勘付いたところで、軌道修正の方向もわからず、せめてもの抵抗として視線を逸らすことくらいしかできない。 「泣かないならいいよ」 ゆっくりと、確かめるように言った。 「お前が、それで泣かないならいい」 言外に、泣くだろう?と言われているような気がして、かっと顔が熱くなった。北陸本線のこういうところがずるいと思うし、何よりも嫌いだった。 北陸本線にとって興味関心がないことに、信越本線が執着していることを、きっとわかっている。どうにか出来るのは北陸本線しかいないけれど、どうにかするつもりはない。けれども、わかっている。わかっているから、こういう試すようなことをする。 大人はずるい。 ずるいし、心底最低だと思う。 けれど、そこから離れていけるほど、信越本線は上手に大人にならなかった。 「泣くわけないだろ」 「俺の前ではね。でも一人で泣くよ、きっと。だからあの子にはあげない」 ならば寄こせ、と言えるほど純粋でもなかった。信越本線の第二ボタンを包みこむように押し当てられた北陸本線の右手を今度こそ払いのける。 「ちなみに、お前にもあげないよ、あげても泣くだろうから」 「だからっ、泣かないって言ってん、」 信越本線が払いのけた右手で、今度は喉の辺りに一瞬触れた。ひ、と変に空気を吸い込み、信越本線は押し黙る。いちいち触れるところが心臓に悪い。言葉を呑み込まざるを得ない。 「俺はずっと、お前が泣かないでいてくれればいいな、って思ってきたんだよ。走行区間も全然違うし、あんまり一緒にいられなかったけど。これからは所属も変わるから、さらにそうかもしれないけどね、泣かないでいてくれたらといつも祈ってる。そういう風に、お前のことは大事にしてきたし、それはこれからも同じ。だから、」 泣くなよ、と。 どの口が言うか、と理詰めで問い詰めてやりたいけれど、触れられたところから熱を帯びて機能しなくなったかのように声は出ない。 中途半端で、それを頼るにはあまりに脆い優しさだった。 |
けれど自分は、きっとそれを握りしめてこの先も生きていくのだろう、と思うと、確かに泣きたくなった。苦しくなれば、きっとこれにを握りしめて立ち上がる。 泣くなよ、とあの人が言うから、涙は流さないけれど。 信越はどうやってお兄ちゃんへの感情に折り合いをつけるのか…。 |