ゆら、と光の線が不思議に揺れて、そうかここは水底なのだと気づく。時折屈折しながら進む光を、ぼんやりと眺めたまま、山陽新幹線は水の中を漂っている。少し足を下ろせば冷たい底にたどり着きそうで、何となくそれをせずにゆっくりと流されていた。海か、湖か、それとも川か。確信するには情報が足りないが、こんなに浅い海はないだろうから、きっと湖か川に違いなかった。ばしゃん!と大きな音がして、光が一斉に散った。何か落ちてきたらしい。つい、と顎をあげて影のある方を見ると、人型をした何かが、山陽新幹線よりも随分と速い速度で底を目指しているのが見える。知っている者のような気がして、目を凝らしてみる。あれは―――――、



 山陽、と自分を呼ぶ低い声と、無遠慮に響いた額を叩かれた音に反応して、山陽新幹線はぱちりと目を開けた。途端、人工物の強烈な明るさが目に入り、思わず寝返りを打つ。と、ソファで寝ていた彼の身体は、どしん、と大きな音を立ててソファから落下した。

「〜〜〜〜〜〜〜ってええええええええええ」

 強打した腰が、ズンと重くなったようである。うたた寝のせいか身体中バキバキだったというのに、そこへ鞭打つようにコンクリートの床へ叩きつけられたのだからたまらない。痛みに耐えて丸まる山陽新幹線の視界に、コツ、と革靴が近づいて来るのが見えて、そうだこの男に呼ばれて目が覚めたのだった、と思い出した。悪いのは場所を顧みずに寝返りを打った自分なのだが、何かのせいにしたくて、その男を思いっきり睨みつける。平時から表情があまり変わらないその男は、山陽新幹線を見下ろしながら、「遅れるぞ」と一言。山陽新幹線のひと睨みなど、まったく効いていない。

「…今何時」
「15時を回ったところだな。また夜勤なんだろう?」
「もう夜勤なのか日勤なのか泊まりなのか何もわかんなくなってるけどね…。夜勤っていうか、対策本部で打ち合わせがあってね」

 未曾有の豪雨によりそこかしこで土砂崩れが起き、橋梁が、線路が流され、中国地方を中心に鉄路に甚大な被害が出た。幸いと言えばいいのか、高架だった新幹線の被害は少なく、すぐに運転再開したものの、在来線が悉く運転を見合わせており、道路も封鎖されているために物資支援や復旧作業などにも影響が出ている。
 在来線は運転再開をしていないものの、梅雨明けでうだるような暑さとなり、少しは水害が落ち着いたタイミングで、山陽新幹線は一度東京を訪れた。仕事があったことも事実だが、あの男を訪ねてみよう、という気になったからだった。

「悪かったね、急に訪ねたりして」

 訪ねた男―――東北新幹線は、やはり表情を変えずに山陽新幹線を見下ろしている。返事の代わりに、すっと右手を差し出された。払いのける理由もないので、山陽新幹線はその手を取った。ぐい、と沈み込んでいた身体が浮上する。見ていた夢の続きのようだった。

「いや…、せっかく来たところ有益な情報が何も渡せなくてすまない」
「ん?いやいや、やっぱ動いてるもんが頑張るしかねーんだなって再認識したから、いーのよ」
「地震は…、土台も電化柱も一気にやられたからな。それに海沿いを走っていないから、俺よりも本線の方が復旧は遥に早かった」
「うーん、そういう時の宇都宮、めちゃめちゃ頼りになるそうだよなあ」
「おかげ様で」

 机の上でランプを光らせている業務用の携帯電話を確認すると、共に来た上司は先に飛行機で九州へ向かったと連絡が入っていた。次の博多行きののぞみの出発まであと20分。丁度良い時間だ。恐らくまたしばらくは来られないであろう東京駅の自分のデスク周りを簡単に片づける。特に前もって連絡を入れたわけではなかったが、目当ての東北新幹線に会えたのは幸いだった。珍しく他の高速鉄道は誰もいない。部屋を出ようとしたところで、東北新幹線が見送りがてらついてきた。
 事務所から駅の構内へ踏み入れると、人がごった返していた。平日の夕方前、ラッシュにもまだ早い時間だというのに相変わらず人で溢れている。新大阪や広島も乗降客数は多いが、東京駅はまた別格のような気がした。あっという間に東海道新幹線の改札口に到着する。さすがに自分の執務室からここまではあまりに慣れすぎていて、目を瞑っていても最短距離で来られるのではないかと思うほどだ。それじゃあ、と山陽新幹線が言いかけたところで、「あの時宇都宮が、」と東北新幹線が突然言った。

「本当に人手が必要で猫の手も借りたいくらい人手不足で、人海戦術でどうにかなるなら話は別だが、そうでもない限り顔は出さないと言ったんだ」
「…うん?」
「『輸送力が足りなくても、僕が動ける限り、君の止まっている区間は繋ぐから』と。だから、安心して復旧作業の現場の方へ連日向かっていた。あの時、夜はまだ凍えるような寒さで、それでも夜通し作業員が復旧作業に当たっていたし、駅では駅員が頭を下げながら訪れる乗客の案内をしていた。どこかで頑張る色んな人たちがいるとわかっていたから、歯がゆくても前を向けたんだ」

 改札に背を向ける山陽新幹線の後ろで、博多行きの発車時刻が告げられる。もう間もなく発車するらしい。うん、とひとつ力強く頷いた。

「お前が走るから、頑張れる人たちがたくさんいるはずだ。頑張っている人に向かって、これ以上エールを送るなという人もいるが、それでも言うぞ。頑張れ、山陽新幹線。頑張れ、西日本」

 東北新幹線の伸びた右こぶしに、山陽新幹線は力いっぱい自分のそれを向ける。ゴツン、と鈍い音と痛みが走ったが、にやりと口の端を上げた。

「支援物資は頼んだぞ。四国も東海も実は被災しているから、頼めるところ少ないのよ」
「承知した。水だろう」
「そう、水。あ、あと出来れば道路と線路」
「それは国とお前たちがどうにかするものだな」

 笑いながら、繋がっていたこぶしを離して、山陽新幹線は自動改札機をさっと通り抜ける。ホームへのエスカレーターを駆け上がると、東海道新幹線自慢のN700Aが、頼もしいくらい輝いてみえた。
 誰かと、誰かが、繋いでいる。
 それが、誰かのエールになるのならば、今日も明日も、前を向く。



 また、光がゆらゆらとたゆたっている。報告書を仕上げなければ、と思ったはずなのに、山陽新幹線はどうやら眠ってしまっているようだった。夢だと自覚している夢は珍しい。先ほどは水底に足をつけるのが不安だったが、今はその恐怖心が消え失せていて、冷たい水底へ二本の足をしっかりとつけた。重力はあまり感じられない。山陽新幹線が水面を見上げるように上を向くと、ばしゃん!とまた音がした。水中の浮力など無視するかのように、一直線に落ちてくるのは、かつての自分。まだ短い髪と黒い詰襟姿が、どうにも時代錯誤で笑ってしまう。あっという間に水底へたどり着いたその人型は、山陽新幹線の足元へ沈んでいく。胸元には、まるで誰かが手向けたかのように、赤いガーベラが咲いていた。置いて行こう、と思った。眠っているように見えるその男は置いて、水面を目指さなければならない。山陽新幹線は、二本の足に力を込めると、一気に浮上する。途中何度か水中を蹴るようにして、上を目指す。
 ぱ、と視界が開けて、水面へ顔を出したと思うと同時に、長閑な田園風景に佇んでいた。見覚えがある。元国鉄篠山線の沿線だ。
 インフラ業というのは、人の生活に密着している。それ故に、「当たり前」であることが多い。電気が点く。蛇口を捻れば水が出る。コンロから火が出る。バスが、電車が時刻通りに到着する。新幹線という都市間の大動脈が止まってしまえば、混乱も大層大きいが、この「当たり前」が根底から崩れてしまうのは、在来線の方なのかもしれなかった。毎日の通勤の、通学の、通院の足が無くなる。罵声が飛んでひたすら頭を下げた回数で言えば新幹線の方が遥かに多い。けれども、在来線運休の表示を見て途方にくれる学生や年配者といった交通弱者を見て、どうしようもないやるせなさを覚えたのは、終戦後の篠山線時代だった。
 あの時の、小さな使命感は今なお胸の内にある。今、自分が果たすべき役割はあの頃とは違えど、誰かがあの小さな使命を担っている。
 ぎゅ、と瞼を閉じると、強い光を宿したいくつもの目が、自分の背中を追っている。



 広島、という駅名に反応して、ぱ、と目覚めた。深いグリーンの制服の皺を伸ばすように整える。減速し始めた窓の流れていく風景を見下げ、山陽新幹線はゆっくりと立ち上がった。
 踏み出した足は、決して軽くはないけれど、迷いもない。
 明日に向かって、また走り出す。





7月のガーベラ

がんばれ




 


平成30年豪雨により被害にあわれた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
被災地の復興を願っております。

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