煙草の煙が燻る東京駅のホームで、名前を呼ばれて東海道本線が振り返った先には、見慣れた双子路線の片割れがいた。最近は何かと東北の方に詰めていることが多いと聞いていたが、業務が一区切りついたのかもしれなかった。少し久しぶりにその姿を目にした。 「試験走行は順調?」 煙草の煙に顔をしかめながら、東北本線が近づいてくる。詰襟姿の彼は、どこか疲労感が漂っていた。 「一応な。最近、北の方にいること多いって高崎から聞いてたんだが、戻ってたのか」 「青森の方で色々やらなきゃいけないことがあるんだけど。ただ、まあ、こっちはこっちで、東京オリンピックに高速鉄道に、日々進化というか変化と言うか…とにかく物事が進むスピードが速いから、やることは五万とあるし、戻ってきた」 東海道本線の隣に並び立つかと思いきや、「ここ煙いから中に入りたい」と、すたすたと先を行ってしまった東北本線の後を慌てて追う。昼休憩を終えたところだった東海道本線は、幸いなことに時間を余している。大人しく東北本線の後に続き、駅事務室への関係者用扉をくぐる。駅員がバタバタと走り回っているのは、中央本線の遅延のせいなのだろう。邪魔にならないように極力端の方へ身を寄せながら、東海道本線と東北本線は長い廊下を進み、使われていない小さな会議室へとたどり着いた。ごちゃごちゃと時刻表やダイヤグラムなど、無造作に紙の資料が積み上げられている。 「人間ってのはすごいよねえ。戦争であんなに失ったのに、あっという間にこんなに復興してみせた。ここ15年くらい?本当に敗戦国なのかっていうくらいの成長だよ。元々日本人っていうのは勤勉だったから、明治期も今も、こうして国が隆盛していくのかもしれないけど」 駅の事務室にはあまり窓がない。この会議室も同様で、外の様子を伺うことはできないが、ぼんやりとした東北本線の視線が壁の向こう側に見ているものは、東京の喧騒なのだろう。東北はどうだ、と東海道本線が問うと、相変わらずの田舎具合だけどちょっとは良くなったよ、と自嘲気味に笑う。 戦後の日本は、世界の各国が驚くほどの経済成長を見せた。大戦終了後に程なくして始まった朝鮮戦争の特需も相重なり、目覚ましい発展を見せた。戦時中に中断していた線路敷設の計画も、順次再開され、全国に遍く鉄道網が張り巡らされている。東京オリンピックの開催も、それに合わせた東海道新幹線の開業も間もなくで、社会は活気に満ちていた。少なくとも、そう見えている。 今日も疲れたな、と、古びたパイプ椅子に腰かけた東北本線の表情に、東海道本線は既視感を覚えた。時を遡ること半世紀ほど前になるだろうか。高崎線とすったもんだしていた頃によく見かけた表情だ。わざと強がる時に見せる、少し歪んだ表情。高崎線とすぐにもめて、喧嘩をおっぱじめる時の表情。言いたいことがあるのに、呑み込んでいる時のそれだ。 「自動車って便利だよね」 「…は?」 何かあったのかと東海道が問うよりも先に、東北本線がそんなことを聞いた。思わず間抜けな一文字を返すが、東北本線は視線の一つも寄こさない。変わらず、壁の向こう側でも見るように、視線は投げやりな方向を向いていた。 「東海道だって知ってるでしょ。シェアの話。飛行機よりも自動車にもっていかれるよ。既に急速に奪われてるけど」 「…まあ、そうだな。それでもこっちは新幹線が開業するわけだし」 夢のある話を振ってみるものの、東北本線の欲していた言葉がそんなものではないことくらい、東海道本線にもわかっていた。ようやく東海道本線の方へ視線を寄こした東北本線の瞳はどこか諦めたような陰りを見せていて、そうかこの男も全部聞いたのか、と腑に落ちる。 決算の説明を、公表よりも少し早めに耳にした。戦前から鉄道事業を担当していた議員の一人が、お前たちならわかると思うが、と前置きをしてそっと耳打ちしてくれたのだ。 街は活気に満ちている。戦争で色々なものを失った人々が、前向きに生きようと経済を回している。この国の復活を世界に知らしめるのだと、東京オリンピックに期待を寄せている。オリンピックを開催できる平和な世界を子どもに託すのだと、前を向いている。 道路等のインフラ設備の整備も、国を挙げて行われている。鉄道の電化も進められている。高速鉄道が建設されている。人のため、世のため、営利目的ではなく、公的な機関として、国有鉄道は存在している。 国鉄の設備は、膨大に増え続けていた。加えて、新幹線の建設が進められている。ただでさえ費用のかかる鉄道設備だが、高速鉄道ともなればなおさらだ。 日本の鉄道技術は、世界を驚かせるだろう。 待ち望まれている新幹線は、華々しいデビューを飾るのだろう。 それはこの国の未来で、この国に必要なものである。 けれどきっと、それを始めようとしている国有鉄道という組織は、このままでは疲弊する。 新技術はどうしたって費用がかかる。それなのに公的な機関だからと好きに稼ぐこともできない。戦前、私鉄として開業した多くの路線が、国有化、公有化された。中には、費用面で立ち行かなくなり、国有化を悲願していた鉄道会社も存在した。そういう、鉄道維持の難しさを、東海道本線も東北本線も、ずっと昔に間近で見ている。 そしてそれを知っている人間が、申し訳なさそうに顔を歪めて、こっそり教えてくれたのだ。 国鉄の経営は危ない、と。 きっとこれから転落していくに違いない、と。 東海道本線は、それを中央本線と総武本線と共に聞いた。そこに東北本線の姿はなかったが、同じ人物から聞いたのか、東北の地で同じような立場の誰かから聞いたのだろう。 「俺たちは、人が鉄道を作ったから存在している」 東海道本線の言葉の真意を図りかねているのか、東北本線は怪訝な顔をした。 「人が望んで、新幹線も開業する。大いに結構じゃないか。どう足掻いたって、きっと経営面で国鉄は相当苦しむだろうが、俺たちのやることはいつもと変わらない。経営母体がどうなるかはわからないが、何も悲観的なことばかりじゃないんだ、前を向ける」 「…まさか新幹線で全部賄えるとか思ってないよね」 「思ってないさ。東北や北海道、九州に四国。どれだけの鉄道網が存在しているか考えれば、何を間違ったって足りないことくらい子どもでもわかる」 「わかってないのばかりだから、ここまで来たんじゃないの?」 「仮にそうだとしても、金の話は、俺たちでどうにか出来ることじゃない」 いいか東北本線、ゆっくりと言い聞かせるように、東海道本線が言った。 「これから、坂道を転がり落ちるにように、俺たちの周りは急激に変化する。例えそれがどんなに自分の誇りを踏みにじられるようなことだとしても、『未来』を見捨てるんじゃないぞ」 「…北にも、新幹線が出来るって言いたいの」 「わからないけどな。あの人を見ていると、本当に未来が見えてくる。きっと、ここで終わりにはならない気がする」 バタバタと廊下を慌ただしく走る音が近づいてくる。足音は、扉を開けっぱなしにしていた東海道本線たちのいる会議室の前を通過した直後、ぴたりと止み、また引き返してきた。 「貴様!そんなところで何を寛いでいる?今日は最終試験走行の日だぞ、油を売ってる場合か?」 大声で会議室を覗き込んできたのは、噂をしていた新幹線の前身だった。東北本線が見たことのない、立派な制服に身を包んでいる。すぐ行きます、と東海道本線が返事をすると、満足そうに頷いて、またバタバタと慌ただしく去っていった。 「…俺の沿線の街に、大きな自動車会社がある。道路の整備だって進んでるし、きっと自動車産業はさらに進んでいくんだろうと思うが、ああやって兄さんを見ていると、まだ大丈夫だなって思えるよ」 経営についてはまた今度、そう言い残して、東海道本線は会議室を後にする。東北本線は、まだ少し、途方に暮れた子どものような顔をしていた。昔から色々と勝手に背負い込むタイプだった。なるようにしかならないのだ、といい加減認めてしまえば楽なのに、自分のことや、大宮で別れて北に伸びる相方のことを考えて、行き詰っているのかもしれなかった。 コンコースを抜けて、ホームへ出る。まだ開業前の新幹線の線路が、西へと伸びていくのが見える。煙草の煙でぼやけているが、その奥に、山手線が、中央本線が、京浜東北線がひっきりなしに到着するのが見える。 前を向くしかない。 そうに言い聞かせて、東海道本線は新幹線のホームへと急いだ。 |
1964年、東海道新幹線開業。 同時に、日本国有鉄道の経営は赤字へ。 国有鉄道の未来は、どこへ向かうのか、その時はまだ、誰も確かな答えなど、持ち合わせていなかった。 1964年の話は何度でも何でもどの組み合わせでも読みたい。お願いします。(切実) |