飲もう、と提案したのが誰だったのか、はっきりとはわからない。埼京線が記憶している限り、川越線に誘われて宿舎のロビーに顔を出した時点で既に5〜6人集まっていたし、最終的には勤務を終えて戻った路線を片っ端から巻き込んで大所帯になっていた。
 アルコールの入った頭で、誰がいて誰がいないのか判断するなど最早不可能に等しく、どこから持ち込まれるのか無くなることのない酒瓶を渡り歩いていたら、いつの間にか夜も更けていた。酒に強いと言われている中央線や八高線も飲み比べをしていたせいか、随分と酔いが回っている様子だった。埼京線が見渡す範囲で自我をはっきりと保っていそうなのは、酔っぱらっているのを誰も見たことが無いと言われている京浜東北線と、二日酔いがひどいとのことだが当日は基本的に潰れない茨城の狂犬こと常磐線、それからいつも真っ先に潰されるはずの高崎線くらいのものだった。
 常磐線が中心となってどんちゃん騒ぎで飲み比べを続ける一座からは身を引くように、埼京線は壁際で密やかに会話をする京浜東北線と高崎線に近づいていく。日本酒の酒瓶を片手に現れた埼京線に、高崎線が「げ」と小さく呟いた。

「やだなあ、別に僕は強制的に薦めたりはしないよ」
「無いと思ったら、それ埼京が持ってたの」

 酒に強い京浜東北線が、埼京線が手にする酒瓶のラベルを一瞥し、続いてお猪口を差し出した。

「だって勿体無くない?新政のNo,6だよ?あんな何の酒を飲んでるかも理解できてない人たちには一滴も飲ませたくないし」
「まあ、同感だけど。高崎も貰ったら?今日は潰しに来るような人、いないでしょ」

 京浜東北線に促されるままに、高崎線は少し遠慮がちに側に転がるお猪口を手にする。どうぞ、と埼京線が注いでいく酒を、物珍しそうに見ていた。

「有名なのか?」
「そうだね、最近有名になったというか。秋田に元々ある酒造さんが出してるお酒でね、あんまり出回らないやつ。この間秋田上官がくれたやつで、棚の奥に仕舞ってたんだけど、誰かが出してきたみたい」
「そりゃな…ここにあった酒、ほとんど無くなったんじゃねーの」

 律儀にいただきますの一言を言ってから、高崎線はお猪口に口づけた。あまり酒に強くない彼は、普段日本酒を飲まないが、「…おいしい」ひとまず口には合ったようだ。

「良かった。っていうか高崎がこんなに残ってるの珍しくない?」
「宇都宮も上越上官もいないからね」

 京浜東北線がさらりと言った。大抵高崎線に酒を薦めて潰しにかかってくるのはこの2人で、今日はどちらも不在だった。それに加えて飲み比べを始めた連中からは遠ざかっていたおかげで、どうやら今夜は生き延びたらしい。高崎線は不満そうに口を尖らせた。

「別に毎回潰されてるわけじゃねーよ」
「こういう大所帯の宴会は大体潰されてない?2人とも自分のおもちゃが他の人に取られるのは面白くないからって構いすぎだよね」

 埼京線の言葉に、誰がおもちゃだ!と高崎線が憤慨するが、自分でも自覚しているのか、一言抗議しただけで、その先は続かなかった。

「ところで宇都宮はどうしたの、そういえばいないけど」
「上官の八戸延伸でくっそ忙しいらしい。毎日遅いか東北に詰めてるかで機嫌最悪」
「ああ、ここんところピリピリしてたもんね…」

 数日前に痴漢騒ぎで朝のラッシュ時間に大幅な遅延を出した埼京線は、その時の氷のように冷たかった宇都宮線の視線を思い出して身震いする。並走する区間のある埼京線、京浜東北線、高崎線、宇都宮線は、どこかがラッシュ時間帯に遅延や運休を出せば、影響を受けやすい。利用者数の多い埼京線が、その発端となることが多く、よく宇都宮線に小言を言われているのだ。
 と、廊下の奥からガタンと物音がした。埼京線は目を凝らして暗がりを見つめるが、影が動いたのがわかる程度で、そこに誰がいるのかまでは判別できなかった。誰か帰ってきたのかも、と確認しに立ち上がりかけた埼京線を制したのは京浜東北線で、こういう時は一緒に立ち上がりそうな高崎線も腰を降ろしたまま動いていない。

「ほっときな、疲れてるだろうから」

 京浜東北線の声は、思いの外真剣味があった。「え?」埼京線は彼の意図するところを瞬時に判断できず、怪訝な声を上げてしまう。

「宇都宮」

 言葉を引き継いだのは高崎線だった。なるほど、埼京線が2人に声をかける前に、ひそひそと宴会の場に似つかわしくない様子で話をしていたのはこのことだったようだ。確かに自分の出る幕はない、と埼京線は大人しく座り直す。宴会の誘いをしようと労わりの声をかけようと、冷たくあしらわれるに違いなかった。

「でも、高崎も行かないの」

 確かに埼京線が部屋を訪ねたところで門前払いをされるのがオチだろうが、双子路線とまで言われる高崎線ならば話は違うはずだ。けれど、埼京線の言葉を受けて、高崎線は少し困ったような顔をした。

「今回は、多分俺も出る幕ねーからなあ…」
「まあ、時間が経てば高崎には言うと思うけど」
「いや別に言ってくれなくても全然構わないんだけど」

 話が見えない埼京線は、高崎線と京浜東北線の会話を黙っているより他なかった。路線として自分が劣っているとはまったく思っていないし、それは他路線だって同じだろうが、共有した時間の短さだけはどうにも出来ず、こういう時に踏み込んでいけないのだった。同じく比較的歴史の浅い武蔵野線あたりは臆することなどなさそうであるが、どうにも埼京線は遠慮してしまう。聞けば教えてくれるのだろうが、敢えて話すことでもないのだろう。
 何となく気まずい、と埼京線が再び腰を浮かしかけたところで、「だよなあ、絶対お前が持ってると思ってた」と突然声が降ってきた。同じタイミングで3人が顔を上げた先にいたのは、先ほどまで大騒ぎしていた連中の中心にいた常磐線である。俺にもくれ!と埼京線の脇に置かれた酒瓶を指さし、グラスをずいと差し出したところで、妙な空気に気付いたらしい。

「…え?なになに、何か重要な話でもしてた?え?この宴会会場で?」

 うっそぉ、と大げさに驚いてみせる常磐線に、何でも無いよ、と笑いながら埼京線は酒を注ぐ。緊張していた空気が緩んで、埼京線は内心ほっとしていた。京浜東北線と高崎線がどう思っているのかはわからないが、少なくとも空気が変わったことは確かである。京浜東北線が呆れたように溜息をついた。

「酔っぱらってないはずなのに毎度空気読めないのすごいと思う」
「はい京浜それ褒めてねーよな?」

 どうぞ続けて、とグラスを煽りながら常磐は言い、そのまま去って行くのかと思われたが、埼京線の向かいに腰を降ろす。

「よし、当ててやろう。近年稀に見る忙しさだった宇都宮の話だろ」
「そういうところは鋭いよね。何なの」
「見りゃわかんだろ。高崎が変な顔してる時は大体宇都宮絡みだ」
「変な顔!?」
「おーよ。鑑でも見てくれば?」

 ぺたぺたと両手で顔を触りながら、どんな顔!?と差し迫ってくる高崎線に、埼京線は「そういう顔かなあ…」とまったく答えになっていない返答をする。埼京線も他人の事は言えないが、確かに高崎線は表情が豊かで比較的わかりやすい。しかし伊達に100年以上存在していないわけで、処世術にもそれなりに長けている。常磐線の観察眼が一枚上手だったのだろう。

「あいつ、下手だからな、甘えるの」

 話の内容など何も聞いていなかったはずなのに、したり顔で常磐線が言った。きょとん、とした表情なのは埼京線だけで、高崎線も京浜東北線も思い当る節があるのか、黙って常磐線の言葉を飲み込んでいる。
 常磐線と宇都宮線が話しているのを、埼京線はほとんど見たことが無い。やはり戦前国鉄組は違うのか、といつものひとりよがりな劣等感が頭をもたげてきたところで、そうか、と思い当った。
 常磐線も宇都宮線も、東北を走る。上野を出てから交わることはないけれど、仙台で再び合流する。埼京線はおろか、京浜東北線も高崎線でさえ知らない、北の顔を知っているのだ。

「でもまあ、俺たち支線のエゴでもあるよなあ」

 支線。
 埼京線はあまり気にしたことがないが、おそらく鉄道が順次敷設されていった明治から昭和初期の整備計画に深く関係する路線たちにとっては、大きな意味を持つのだろう。本線であることを誇示するような路線は、今となっては皆無に等しい。本線よりも支線の方が、走る列車の本数も利用客も多いことだって少なくない。けれど、問題なのはそういうことではなくて、彼らの根っこに息づいている存在理由の方なんだろう。
 それは、何となく埼京線にもわかるような気がした。鉄道の黎明期から、人々の期待を背負って列島の大動脈たる使命を担った本線の存在は、現代路線と言われる埼京線にとっても少しだけ違う。普段は意識することもないけれど、ふとした瞬間に、この人は都市間輸送を担っていたんだ、と思うと背筋が伸びる思いがする。
 新幹線が無かった時代、北から南へ繋げた路線があったのだ。
 そうして、宇都宮線―――もとい東北本線はその役割と一部終えた。東北新幹線の八戸延伸に伴って。

 なるほど、と埼京線は思った。高崎線も京浜東北線も行かなかった理由が、わかった気がした。

「やっぱ北に伸びる組としては、先頭にいて欲しいような気がするもんだよな」
「っつーか、まあ、そう在ることが案外宇都宮にとっても救いなんだろうしな。お互い様だよなあ」
「同意求められてもね。正直僕はあの人に対してそこまで思い入れはないし。大宮までしか用はないから、正直僕が一番だと思ってるし」
「何に対しての1番だよ。ま、そもそも京浜の本線様は東海道だもんな」
「心外ながら」
「心外なのかよ!」

 心外だと言った京浜東北線だが、東海道本線の支線として長らく共に存在してきたからなのか、本線組に対するアンテナは他の者より一段高い。

「本線様が復活したらぱーっとやりますかあ!」

 常磐線が両拳を上につき挙げながら、さも名案かのように提案する。

「そんなの関係なく飲んでるでしょいつも。今日だって何の名目だったの、これ」
「さあ?武蔵野が風強めだったけど止まらなかった祝い?」
「え?でも遅れてたよね?武蔵浦和駅すごかったけど」
「中止になんなかったじゃん」
「レベル低っ!」

 あははと笑う高崎線を、埼京線はそっと盗み見る。常磐線が言うところの変な顔、がまだ続いているのかどうか、埼京線には判断し兼ねたが、それでもこうやって隠れるように気遣いをする彼を、少しだけ見直した。2人セットに見られがちだが、何でもかんでも共有するわけではないらしい。
 高崎線の肩ごしに、廊下が続いている。先ほど埼京線が覗いた時には真っ暗だったその廊下は、誰かが灯りをつけたのか、橙色の蛍光燈が光っている。勝手口付近に、2人分の靴が無造作に散らばっているのが見えた。
 声をかけないことを選んだ高崎線たちとは違う役割を担う誰かがいたのだろう。



 この世界には、色の違う優しさが存在するのだ、と埼京線は知ったのだった。





優しさ色分け




 


3セク化の話が好きなんd(略)
色んな役割があるよね。

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