列車が、音も無く滑り込んで来る。 滑り込む、という表現が初めてしっくりと来たのは、冬が始まって線間の積雪が15cmを超えた頃だった。普段はレールの継ぎ目を乗り越える車輪の音が一定の間隔で響いていて、列車の近づいて来る音は大分先からわかるのに、その日は列車の気配を感じた時には、既に車体が自分を通り越していた。白銀の世界に、突如現れた鉄の物体は、とても無遠慮な存在なのに、すーっと静かに入り込んできたことが、どうにもちぐはぐしているように感じられ、長野新幹線はしばし息を飲み込んだまま呆然としていた。雪が全ての音を吸収している。すぐ側の国道を走る車の音も、人のざわめきもかき消されているようだった。降雪の様子を、しんしん、と表した最初の人は誰なのだろう。雪はただひたすらに降り続いている。 ホームに立ち尽くす長野新幹線に、上官!と少し慌てた様子で声をかけてきたのは、信越本線だった。バタバタバタ、列車よりも遙かに軽いはずの男の足取りは、音の無い世界によく響いて、長野新幹線は妙に安心したのを覚えている。 「ホームの端は歩かないようにっていつも言ってますけど、冬は特に気を付けてください。雪は列車の音を消してしまいますから」 高速鉄道の候補生となった最初の冬だった。 蝉の鳴き声が響き渡っている。 梅雨も明けて本格的な夏が始まり、連日真夏日の気温を叩き出す長野で、北陸新幹線は次に来るかがやき号を待っていた。乗務員室の隅で本を読んでいたが、人がいない部屋に威勢が良い蝉の鳴き声が響き渡り、自身がページを手繰る音さえかき消されている。真夏だろうと長袖の制服に身を包む新幹線の車掌にちなんでいるのか何なのか、生地に多少の変更はあるものの、高速鉄道の化身たちは、相も変わらず深緑の制服に身を包んでいる。新幹線に乗るために一歩でも外に出ようものなら、毛穴という毛穴が一気に開くような不快な感覚を伴って、汗が流れだすであろうことは想像に難くない。 北陸新幹線は、文庫本へ落としていた視線を上げ、窓の外を見遣る。真っ青な空に、白い絵具を塗り固めたような重量がありそうに見える雲が点々と浮いている。 クーラーの良く効く室内から見るそれらは、どうにも非現実的に見えた。みーんみーんと鳴り止まない蝉の鳴き声も、窓から見える青空と雲も、北陸新幹線のいる世界とは別のところにあるような感覚。 無音ではないはずなのに、全部が鳴き声に吸収されているこの空間が、真冬の雪で埋め尽くされた世界を思い出させた。 そう言えば到着の放送も聞いていない。聞こえないのか、そもそもまだ何も放送されていないのか、よくわからなかった。間もなく到着だろうか、と北陸新幹線が確認のために本を閉じたところで、がちゃりと扉が開いた。壁一枚を隔てても響いていた蝉の大合唱が、途端にボリュームを上げる。 「お疲れ様です。こうも暑いとやってらんないですね」 響き渡って止まなかった音を切り裂くように凛とした声が室内を通過する。ぼんやりとした表情で北陸新幹線は現れた男を見ていた。 「っつか上官は大丈夫なんですね、さすが。俺のところはレール温度の上昇で運転中止になっちゃって」 響く蝉の鳴く声を物ともせずに、信越本線の声はよく響いた。それは何も特別なことではなくて、当たり前の出来事のはずなのに、北陸新幹線には妙にはっきりと信越本線の声が聞こえるような気がする。信越本線へ返答をしないでいると、反応が無いことを怪訝に思ったのか、信越本線は不思議そうに首を傾げた。「聞いてます?」バタン、と信越本線の後ろで扉が閉められて、蝉の鳴き声は再び遠ざかった。 「・・・・聞いてますよ、お疲れ様です。レール温度上昇による運転中止って…しばらくは動かないんじゃないですか?」 「ですね。だからとりあえずここに休憩に来ました」 履いていた革靴を脱ぎ捨てる。 絨毯の上を少し摺り足気味に歩く。 向かい側に座る。 衣擦れ。 北陸新幹線は、試しにもう一度文庫のページを手繰ってみたが、やはりよく聞こえない気がした。代わりに、ローテーブルに信越本線が体重を預けたぎしりと木の板が軋む音がする。二人しかいない部屋に、よく響く。じっと信越本線に見入る。「・・・・何ですか?」あまりに躊躇なく見つめていたからか、信越本線はすぐに眉根を寄せて、北陸新幹線にそう尋ねた。 「・・・・いえ、蝉、すごいなあと思いまして」 「は?蝉?ああ、確かに今日は一段と煩い気がしますね。何だろ、昨日雨だったからとか?」 「雨が降ると変わるんですか?」 「雨の日ってあんまり鳴いてなくないですか?意識してたわけじゃないから確証ないけど」 雨音で聞こえないのかもしれないが、確かにそんな気がした。昨日雨が降ったからだと答えた信越本線は、既にその話題から興味が削がれたようで、ジャケットを脱いで熱を発散させている。トレードマークのマフラーも、ジャケットと同様に無造作に脱ぎ捨てられた。側に畳んで置いていた自分のマフラーに、北陸新幹線は何とは無しに手を伸ばす。手で布を握った僅かな音が、文庫本のページを手繰る音よりも遙かに響いたような気がして、北陸新幹線の心臓も、ドクンとひとつ鳴った。何も悪いことをしたわけではないのに、慌てて信越本線を盗み見たが、特に変化は無かった。胡坐をかいて支給されているタブレットを睨んでいる。何か情報でも入ってきたのだろう。こりゃだめだ、と呟くと、先ほど放り投げたマフラーとジャケットの上にごろんと寝転がる。 「皺になりますよ」 「皺ぁ?あー、ジャケットか、ったく何でこうクソ暑いのに服務規程上こんなもん着ることにしてんだか」 信越本線は億劫そうに自身の下敷きになっているジャケットを引き抜くと、手早くそれをたたみ、ローテーブルの上へ置いた。マフラーは相変わらず枕代わりのような役目を果たしている。皺になってしまう、とやはり北陸新幹線は思ったが、口を出すようなことでもない、とそれ以上小言を言うのは諦めた。 「っつか、上官は暑くないんスか、それ」 「暑いですよ」 「脱げばいいのに。上越上官なんて半裸も良いとこですよ」 「あれはどうかと思います。まあ、でも、もう間もなく出なければならないので」 特に新幹線の遅れについては情報が入ってきていない。さすがにそろそろ出なければ間に合わなくなってしまう。北陸新幹線はゆっくりと立ち上がった。相変わらず蝉は鳴き続けていて、音を吸収している。自分が動く音など、無いに等しかった。 それなのに、目の前の男が暑い暑いと呟く声や、身じろぎする衣擦れの音がいやに響く。 「あー、待った、上官、これあげる」 なに、と北陸新幹線が言いかけたところで、思いの外速いスピードでその物体が飛んできた。反射でそれを受け取ると、何てことは無いスポーツ飲料水だった。「ほんっと暑いから気をつけて」信越本線はげんなりとした表情で窓の外を指さす。でしょうね、と北陸新幹線は気を引き締めると、ありがたくそれをいただくことにした。ちゃぷん、涼しげな音が鞄の中で鳴る。 扉を開けると、むわっとした蒸し暑い空気が一気に雪崩れ込んできた。早急に新幹線ホームへ上がってしまおう、北陸新幹線は足早に歩き出す。ホーム中ほどのエスカレーターまで来たところで、ぴたりと足を止めた。後方の乗務員室が、夏の蜃気楼で揺らめいているような気さえする。 不思議な気分だった。 そこにあるのは静寂だった、蝉の声が響き渡っていても。 蝉の鳴き声を聞きながら、静けさや、と歌った昔の歌人はこんな気持ちだったのだろうか。 音の無い世界は、夏にも冬にも存在する。 それは、何かが音を吸収するからだ。 ただ、何にも吸収されない音もあるのだ、ということが、北陸新幹線を安心させる。 昔も、今も、変わらずに。 |
何となくタイトルは登場路線に関係する色にしたりしてるんですが、W上越と弟信は同じ色だ…。 |