まるで暗いトンネルの中のようだ、と思った。

 初めて乗る路線は、仕事帰りに寄ったこともあって、窓の外を流れていく景色はほとんど闇に呑まれている。街灯りはおろか、街灯さえも無い。山間部というと大げさだが、周囲を小高い山に囲まれた箇所を走行しているようで、何も見えなかった。そのうち開けた場所へ出るのだろうが、今はただ、闇が走り去っていく。
 ゴーッ、という音がして、本物のトンネル区間へ入ったことがわかる。なるほど、トンネルの中に入った方が、誘導灯などの灯りがあって、外よりもよほど明るいことを知る。昼間に通れば光の届かない薄暗い空間だとばかり思っていたのに、何故だか今はその無機質で人工的な灯りにほっとする。
 北陸新幹線は、揺れる車内でぼんやりと窓の外を眺めていた。石川県、富山県と通ってきた線路は、間もなく新潟県へ入ろうとしている。旧北陸本線と、旧信越本線。今は自分の開業と共に第三セクターへ譲渡され、地元が支えている路線である。見上げれば威圧するように存在する、北陸新幹線の高架式の線路が見えていたが、もう間もなくあれは別ルートをいくはずだ。車窓に映される自分の影をじっと見つめ、ため息が出た。諦めなのか、疲れなのか、北陸新幹線自身にもよくわからない。「…遅い」ガタガタと一定のリズムを刻みながら揺れる列車の座席に身を預け、誰にともなく呟いた。金沢を出てからもう随分経つ気がするのに、なかなか目的地に辿り着かない。普段は新幹線で移動することがほとんどである彼にとって、時速100km未満で走行する在来線のスピードは、ひどくもどかしい。それでも列車が長距離移動の主な手段だった黎明期には、さぞ期待されていたのだろう。高速鉄道の矜持など、何の役に立つのだ、と思うこともあるが、自分よりも幾分か早く開業した諸先輩方の言葉を思い返す度、その言葉は飲み込まれる。
 進化は残酷さを伴う。それまでの歴史だとか誇りだとか、そんなものは全て一瞬で呑み込んでしまう。100年以上の歴史を持つ本線たちを、高速鉄道は圧倒言う間に抜き去り、置き去りにし、そして奪っていく。
 期待されていたことは知っている。期待に応えられたことも知っている。開業したことにより、東京から北陸へのアクセスが抜群によくなったことは間違うことなき事実であるし、投入された新型車両も好評を得ている。兄である北陸本線や、長野新幹線だった頃に並行在来線として隣を走っていた信越本線が、色々な心情をさらけ出さずに、自分の開業を喜び祝ってくれたこともわかっている。それが全てではなくとも、嘘ではなかったことも知っている。
 それでも、どうしてもたまに不安になるのだ。

 自分の存在は、正しいのだろうか、と。

 何を今更、と笑われるかもしれないが、今だからこそ感じるのだった。長野新幹線として暫定開業したことは、自分にとってはきっと幸福だった。何も知らない幼子の顔をしていれば、大抵のことが許されたし、実際に部下たちは優しかった。上越新幹線や東北新幹線は、候補生だった頃に随分と苦労があったようだけれど、北陸新幹線にはほとんどその苦悩が無かったと言っても過言ではない。我慢は12歳までだ、とよく信越本線が愚痴を零していたが、あながち嘘ではないのだろうし、それは他の在来線にとっても同じなのだろう。幼い姿をした長野新幹線という存在に、冷たくできるほど非道な者はいなかったのである。地方を走る高速鉄道が受けなければならなかった苦悩を、北陸新幹線は、幼子の長野新幹線という存在に全てを押し付けて、回避した。北陸新幹線として本格的に開業する頃には、既に自分の存在をほとんどの者が認めていたために、驚くほどあっさりと金沢まで開業した。そんな中で、お前は俺たちを踏みにじって上に立つのだ、と主張してくれた信越本線という存在は、ある意味でありがたかった。高速鉄道が絶対に忘れてはならないものを、北陸新幹線が長野新幹線と共に葬り去ろうとしていたものを、全て引っ張り上げたのである。感謝、と言えるほど捻くれてはいないが、それでも多少の恩は感じている。あの人は、自分を高速鉄道たらしめるために、北陸本線とは別の意味で、必要不可欠だった。

 列車はいつの間にか新潟県内に入っていた。無人駅でぽつり、ぽつりと乗客が降りていく。在来線の駅の小ささに、北陸新幹線は驚いていた。どんなに乗降客数が少ない駅でも、新幹線停車駅は設備も立派で、営業列車が走行している間は駅員がいる。眩しくて冷たい蛍光灯が、煌々とホームを照らしている。在来線の無人駅にも蛍光灯くらいは存在するが、その光はおぼろげで、どこか頼りない。駅舎に向かうための跨線橋も、そのまま別世界に続いているのではないかと思わせるほど、奥は暗くて見えづらかった。とは言え、跨線橋の先にあるのは反対側のホームで、待ち受けているのは誰もいない駅舎なのだけれど。
 ワンマン列車の運転士に定期券を見せながら、女子高生が一人、制服のスカートを翻して降りていく。この生徒は、きっと毎日同じ時間に列車に乗り、家と学校を行き来しているのだろう。降りる乗客は他にはおらず、たった一人で薄暗いホームに降り立つと、奥が見えない暗い跨線橋に飲み込まれていく。

 一局集中か、とぼんやりとそんなこを思った。
 東京や関東、そして大阪、名古屋、仙台などの主要地方都市への人口集中が凄まじく、地方の都市間に存在していた町から人が減っていることは、随分と前から言われていた。そうやって社会の在り様は時代と共に変化をしていくのだろうし、どちらが幸せでどちらが不幸だなどとくだらない論争をするつもりはない。けれども、きっと自分の存在がその一端を担っていることは事実なのだろうし、地方はこれが現状なのだ、とも思う。
 それでも、まだ確かに存在している。
 地方路線も、地方に住む人間も。
 そういう人たちの生活の足として、自分の兄も自分を甘やかしてくれた新潟の本線も、存在している。
 どうしても不安になる時がある。
 そんなのはただの弱音で誰に漏らして良いものでもない。ならばせめて、自分の中で納得できるように、目を逸らさずにいよう、と北陸新幹線は決めていた。
 だからこうして、在来線を乗り継いで、直江津へ向かっている。
 自分が奪うことになったものを、きちんと目で見ておこう、と思い立った。
 再びトンネル区間に入り、その終端を潜り抜けると、突如目の前が開けてきた。海原に、月がぽっかりと浮かんでいる。いや、海原は反対側のはずだ、と北陸新幹線は我に帰り、日本海だと錯覚したそれは、水の張った田圃であることを知る。ゆらゆらと、月明かりが揺れている。

 大丈夫ですよ、と途端に優しい声が脳内にこだました。怯えているかつての自分の姿が目に浮かぶ。ほんとうに?ほんとうにだいじょうですか?月明かりしかないですよ、と幼子の姿をした自分がしきりに誰かに確認している。大きな温かい手がゆっくりと自分の頭を撫でながら、大丈夫です、と力強く頷く。
 夢見心地だった。
 思ったよりも疲れているらしい、ということに気付くが、あまりにも居心地が良かったので、北陸新幹線は、その夢にしばし身体を預けることにする。小刻みに揺れる在来線の振動が、心地良い。昔の記憶を夢に見ている。

 大丈夫です。

 彼の人の声が、何度も繰り返す。記憶の中で、どうやら自分は、どこかの駅に降り立ったようだった。記憶にない駅舎から、そこは新幹線の停車駅ではなく、どこかの一在来線の駅だと知る。駅員の姿は見当たらず、無人駅だということがわかる。どことなく、先ほど少女が降りていった駅に似ていた。
 だってこんなに暗いですよ、と小さな自分は半べそをかきながら訴えている。忘れて来た僕が悪いんです、やっぱり行く必要なんかないですよ。どうやら自分は、駅舎から出て行こうとする誰かを止めているらしかった。昼間、まだ開業していない新駅を見たいなんて言ったからバチが当たったんです。ぐすぐすと情けない声で訴える。だからもういいんです、行かないでください。最後は悲鳴にも似た声だった。でも、と言葉を繋げたのは自分では無かった。自分が必死に止めている人物で、彼は長野新幹線の目線に合わせるためにしゃがみ込む。上越上官から貰った大切なものなんでしょう?にこりと微笑んで、その人物は本当に優しい声で言う。もう随分と彼のそんな声は聞いていない。懐かしさに、どういうわけか胸が締め付けられるようだった。大丈夫、もう一度そんな風に彼は言い、駅舎の外を指さした。

「月明かりは道を照らすから、か…」

 ぽつり、と彼の人―――信越本線の言葉を引き受けて、北陸新幹線は小さく呟いた。と、同時に夢の終焉が告げられる。瞬きを何度か繰り返すと、とっくに列車は次の駅へ向かっていた。見えなくなった、少女が降りていった駅を思い出し、きっと彼女も月明かりを頼りに帰るのだろう、と安堵する。今日は満月で、空は明るい。
 水田に映る月明かりは、どこまでも続いているように見えた。
 きっとこれから先も、何度も迷うのだろう。不安な夜があるのだろう。けれども、その度にきっとこの言葉を思い出して、また自分の場所へ帰ることが出来る。

 高速鉄道は、技術の結晶だ。
 進化した技術に、支えられて存在している。自分たちは、月明かりだけでは帰って来られない。眩しいくらいに照らし出す、人工的な光に導かれて、在るべき場所へと帰ってくる。けれども、その光は、たくさんの思いが詰まっている。そう簡単に、消えやしない。
 そうして、白々とした蛍光灯に照らされずとも、自分の道を違わずに走り続ける路線たちがいる。北陸新幹線が、高速で駆け抜ける場所で、人の営みを支える路線たちがいる。
 長いトンネルのようだと思った場所にも、光はある。

 月明かりが照らす景色が、水田から町並みへと変化した。自動放送が間もなく終点へ着くと告げている。感情のない機械の声が、乗換え案内を告げている。
 やがて列車はゆっくりと徐行していき、直江津駅へと滑り込んだ。JRが消えて、地元の線路へと生まれ変わった駅名標が、ホーム上で誇らしげに光を放っている。
 北陸新幹線がホームへ降り立つと、冷え込んだ風が吹き込んできた。日中は随分と気温が上がるようになったが、朝晩の冷え込みはまだまだ激しい。と、そこで北陸新幹線は、車内にマフラーを置いてきたことに気付く。慌てて引き返そうとしたところで、ふわりと首に温かいものが巻きつけられた。え、と戸惑いながら首元を見下げると、見慣れたカラーのマフラーがそこにはあった。マフラーから視線を少しずらして前を見ると、やはり同じく見慣れた色の制服に身を包んだ路線が立っている。

「風邪、引かないでくださいよ。ったく、せっかく人があげたんだから、大切にしてください」

 夢の中とは随分声音が違ったが、同じ顔をした信越本線がいた。予想外の出来事に、北陸新幹線はしばし呼吸をするのも忘れたほどだ。聞いてます?と眉根を寄せた信越本線に覗きこまれ、我に返った。

「信越、何してるんです、こんなところで」
「はあ?アンタこそ何してるんですか。俺は一応ここまで来ることはあるんですよ。直江津は北陸新幹線のルートじゃないでしょうに、一体何の用事で来たんです?」

 最もな意見に、北陸新幹線は返す言葉が見当たらない。日中であれば、仕事で来たという言い訳も出来ただろうが、こうも夜が更けていては何の言い訳も出来なかった。北陸新幹線の返事など対して興味が無いのか、信越本線はさっさと歩き出してしまう。階段を上って出口へと向かう彼に、何となくついていく。直江津まで来たら、すぐに折り返すつもりでいたが、思いがけず彼に会ってしまったのだから仕方ない。ふと、隣のホームを見ると、新井行きの列車が止まっている。先ほど北陸新幹線が乗ってきた列車からの接続を待っていたようだった。まだ、終電というほど遅いわけではない。咄嗟に、北陸新幹線は身体を動かしていた。

「わ!ちょ、なに、どこ行く気ですか!聞いてます?北陸上官!」

 突如腕を掴まれて、半ば引きずるように方向転換をさせられた信越本線は、咄嗟のことに抗えず、そのまま北陸新幹線が向かう方へ足を向けざるをえなかった。肩ごしに振り返る北陸新幹線は、どこか楽しそうに笑っている。

「あれ、乗りましょう」
「あれって、新井行きの電車のこと言ってんですか!?何でまた!?俺は今日このまま長岡まで帰る予定なんです!」
「いいじゃないですか。上官命令です。たまには付き合ってください」
「新井に何の用があって行くんです!」
「新井に用はないですけど。この時間なら長野まで行けるかなあ、と」

 乗継は発生するものの、十分間に合う時間である。「アンタは長野まで行けば自分の路線走ってんでしょうけど、こちとらアンタのせいで分断されてるから長野に行ったところで意味なんかないんですよ!」体格差故に反抗したところで意味がないとわかっているのか、存外暴れもせずに文句を言う信越本線の声は、やはり夢の中の人物と同一とは思えないほどに刺々しい。信越本線が何と言おうと、上官命令です、の一言で片づけていたら、反論するのも馬鹿らしくなったのか、結局信越本線はそのまま新井行きの列車に乗り込んだ。言い方は随分と冷たくなったものの、何だかんだとこの男は自分を無碍に出来ないことを、北陸新幹線はよく知っている。
 逃がさないようにと掴んでいた腕とは反対の左手で、信越本線は何やら熱心にメールを打っている。覗き込むと、隠す気などさらさらないのか、信越本線は特に拒否をするそぶりも見せなかった。メールの文面いわく、『明日朝一で長野に来い』とのこと。

「もしかしなくとも、兄に連絡する気ですか」
「当たり前でしょーが。責任持って引き取って貰わないと、こちとら明日も仕事なんでね」
「信越の仕事の邪魔をするつもりはありませんよ」
「どーだか」

 拗ねたような表情で、信越本線は窓の外を見つめている。電車はゆっくりと動き始め、あっという間に直江津駅のホームは見えなくなった。本当にこの人はついてきたんだ、と有無を言わさず引っ張って来たのは自分でありながら、その事実に可笑しくなる。何笑ってんすか、と低い唸り声で威圧してくる信越本線がいっそ愉快だった。
 可哀想に、と思うけれど、呟こうものならさすがの信越本線でも長野行きをすぐさま中止するくらいには怒るだろう、と見当がつくので、声には出さない。

「さっきね、貴方のことを思い出してました」
「へえそうですか、俺はアンタのこと思い出すなんてことしないですけど」
「冷たいなあ。夢の信越はとっても優しかったのに」
「気持ち悪いこと言わないで貰えますか。北陸上官に優しくした記憶なんてないですよ」

 いいえ優しくしてくれました、甘えるような声で北陸新幹線が言うと、信越本線は言葉を詰まらせた。言外に長野新幹線時代のことを言っているのだと察しているのだろう。苦虫を噛み潰したような変な顔をしている。

「ふふ、僕に優しくしたこと、後悔してるんですか?」

 少しばかり自虐を込めてそう言えば、信越本線がまた言葉を飲み込んだのがわかった。可哀想に、と二度目になる言葉を思い浮かべる。この人はずっと囚われ続けている。
 成長した北陸新幹線に、どう接すればいいのか迷っている節があるのは、何も今に始まったことではない。北陸本線には、どうせそのうち諦めるから放っておきな、と言われているが、目の前で迷子の子どものような態度を取られれば、気にかけてしまうのが大人というものである。自分よりもよっぽど年を重ねた信越本線からしてみれば、そのように思われていることは屈辱なのだろうけれど。

「僕はね、信越、月明かりだけじゃ帰れないんですよ」

 北陸新幹線の言葉に、信越本線は戸惑ったようだった。慎重に言葉を選んでいるようで、返事はない。返事がないのを良いことに、北陸新幹線はそのまま言葉をつなげていく。

「だから、しばらく付き合ってください。そのうちきっと、そんなもの無くても、自分で道くらい照らせるようになりますから」

 不安になる夜を何度か繰り返すうちに、きっと対処法くらい見つけられるのだろうし、もっと言えばそのうち不安などなくなるのだろう。
 今はまだ、存在してから間もないこともあって、どうにも危うい心持ちがしているが、自分が走り続けることが当たり前になって、自分のせいで譲渡された区間も、町の顔として走り続けられるようになったら、今の不安など笑い飛ばせるようになるのだろう。
 それまで、我侭を言ったって許されるはずだ。

「…何の話をしてんのかわかんないですけど、俺が付き合うのは長野までです」
「あはは、はい、それでもいいです」

 無意識に、信越本線の右腕を掴む手に力を込める。それに信越本線も気づいたのだろう、ため息を短く吐くと、子どもを宥めるように、大丈夫、と言った。その声は、少しだけあの時のような優しさを含んでいた。



「アンタがどこにいようと、ちゃんと見てますから」



 これが、きっと在来線の強さなのだ。
 月明かりを頼りに、帰ってくる。離れていっても、帰って来れる。だから、安心して上に立つ。自分たちは、彼らを置いて駆け抜ける。
 彼らから奪って、走り続ける。

 ほんとうに?と呟いた頃には、意識が遠ざかっていた。思い返せば今日は始発から仕事に追われていて、随分と疲れている。落ちていく意識に、抗う術は持ち合わせていなかった。
 沈み込んでいく意識の中で、大丈夫、ともう一度聞こえた気がした。





月明かりに託す

だってきっと、それだけあれば、貴方は。




 


大丈夫話第2弾。

back