周囲はパーフェクトワールド
   




「生まれて初めて完璧だと思える人に逢いました!」



 日本史の授業が終わったと同時にぐるりと後ろを振り返って叫ぶように言った少女は、今年の春から武蔵森学園高等部に入学した、まだあどけなさの残る15歳だった。そんな彼女をうさんくさそうな目で友人は見遣って、「どうせまたくだらないことでしょ」と言った。

「いやいや今回はまじだって!」
「試しに言ってみ?」



「渋沢先輩!」



 バンとが机を叩いた音が教室に響く。前で居眠りをしていた男子生徒の肩がびくりと揺れ、そして起き上がったが気にしない。

「勉強できるでしょ、運動神経良いでしょ、優しいでしょ、かっこいいでしょ、ほら完璧じゃん!」
「別に顔はそんなに美形じゃなくない?だったら藤代くんとかの方がかっこいいよ」
「ならいいよそれで!」
「完璧じゃないじゃん」

 友人アキのその言葉に、だからそこを補う藤代くんという要素が側にいるわけでそれで完璧になるじゃん、は誇らしげだ。意味がまったくわからないとアキは思うけれど、の表情を見ているとあまりの自信に言い返す気も失せてくる。



 の通う武蔵森学園のサッカー部は、それこそアイドル並に人気のある生徒がいて、それこそ少女漫画家も驚くような人気っぷりだ。噂によると通学路の木陰にはたくさんの女生徒が彼らを一目見るためにこっそりと隠れているのだとか。サッカー部の部員の一人、Kくんの証言によると「たまにすごい悪寒が走るんですよね」だそうだ。

 とにかくそれほどの人気を誇る生徒がいて、その1人が渋沢克郎だった。中学生の頃から並はずれた運動神経とその温和な性格から人に好かれていたわけだけれど、高等部に進学して男女別学校舎ではなくなって、異性からの人気は上昇しっぱなしだった。

 に言われるまでもなく、彼がそれこそ理想と謳われるほどの人物であることは周知の事実である。

「そういやさあ、あんた渋沢さんと接点あったっけ?」
「昨日廊下ですれ違ったよ」

 それを世間では他人と言うことを彼女は知らないらしい。アキは言い返すことさえも面倒になったようで、そうよかったねと視線を手元のファッション雑誌に移す。聞いてよ!とがアキの肩を揺さぶって叫んでいると、隣の教室に出掛けていたはずの笠井が戻ってきた。手には英和辞典を持っている。

「・・・相変わらずうるさいね、
「あ、笠井聞いて!」
「聞かない」

 ガタンと自分の席に腰を下ろした笠井は、の希望には答えずにさっさと次の授業の用意を取り出すと、教科書を開いた。次の時間は数Aで、日付から考えると笠井は残念ながら当たる予定なので、予習をするのだろう、「笠井って馬鹿みたいに真面目だよね」、ファッション雑誌に変わらず目を向けたままアキはぼそりと言った。

冬休み前のざわついた教室に籠った熱気は何とも言えず変に気分を高揚させる。もその気にあてられたのだろうかとアキは思ったけれど、よく考えてみれば彼女はいつだって唐突に物を話す女で、しばしばついていけないことを思い出して理解することを放棄した。

「やー、でもさ、渋沢先輩のことなんだけど」
「いや、なおさら聞きたくない」

 笠井は綺麗な山を描いている眉を歪めて息を吐いた。

「なんで!?」
も部活中心に生きてるんだからわかるでしょ。部活以外で部活の話したくない」
「えー?だってあたしは部活を愛してるからさー」

 だから聞いてと笠井の気なんてお構いないしに、は彼へ向き合うと満面の笑みで昨日あったという出来ごとを語り出す。もちろんアキはその話を聞くつもりなど毛頭ないため、ファッション雑誌からは目を離したものの、それは長く伸びた自分の髪の毛先へと向けられている。

 意識は数式に集中させたままとりあえず耳から入ってきた情報を整理した結果、笠井はどうにか昨日が渋沢と出会った経緯を知ることができた。どうやら彼が部会に行く途中の廊下で遭遇したらしい。そこで一瞬渋沢と出会って、はほとんど盲目的とも言えるほど、彼を崇拝する羽目に陥ったようだ。

 例えば何か劇的な出逢いをしたというならば、が渋沢にときめくのもわからなくはないけれど、言ってしまえばどこにでもあるような当り前すぎる出逢いには正直共感することはできない。

「大体さ、それだけで性格良いとかなんでわかんの?」
「勘と、情報収集により?」
「・・・」

 それってどうなの、と笠井が呟いたのとチャイムが教室に鳴り響いたのはほぼ同時だった。席に着けーというあまり響かない声で数学の新人教師がやる気なさそうに入ってきて、も仕方なしに自分の席に着いた。



 ふと窓の外に目を向ける。もともと私大文系を目指すには端から数学を聞く気はない。群れるように鉄棒周辺に集まる男子生徒の中に渋沢を見つけては思わず身を乗り出す。二階からはあまり見えないけれど、表情は楽しそうで体育の授業は好きなんだと言うことが知れた。運動神経の良さを考えれば当り前なのかもしれない。
 教師の口から発せられる呪文のような数式を聞き流しながら、は日の当たる席でぼんやりと渋沢を追う。二人組になりながら柔軟をしている様子でさえも輝いて見えるのは、何かフィルターがかかっているのだとわかっていても、その格好よさに思わず口許が緩んでしまう。



 と、こつんと隣から笠井に頭を小突かれて、教師に睨まれていることを知った。慌てて教科書を開いて数式を確認する。ふいに笠井の腕が伸びてきて、教科書の隅に何か文字を書いた。『幸せそうだね』、じっとその書かれた文字を見て笠井に視線を移すと、呆れた顔をしていた。も笠井のノートの隅にさらさらと返事を書いていく。『幸せです、完璧』、安い幸せだなあと思いつつも、実際に幸せなのだから仕方ない。



「渋沢先輩みたいな人の世界は完璧なんだろうなって思うけど、」



 教師のことは忘れてが笠井に話しかけると、あからさまに迷惑そうな顔をしたけれど制すことはしなかった。





「あたしの世界もなかなか完結してると思うんだ、好きな人が出来るって幸せ!」





 きらきらと目を輝かせてそう言うに、恋する乙女とはこういうことをいうんだろうかとそんなことを思いながら笠井は肩をすくめた。

「一人だけで世界が出来るってどうなの」
「うっさいなあ、笠井にも好きな人できるとわかるよ」

 わかってるつもりだけどという笠井の言葉は、を叱りつける教師の声で掻き消された。

「今のままで終わって欲しいな」
「何が」



「世界」






なんて納得のいかないでき(笑)でも書き換える気はない。←

10年02月16日 夜桜ココ


back