例えば、と彼女は言った。 どちらかと言えば抑揚のない声で、そこに感情は読み取れない。すらりと伸びた両手を無防備にフェンスの向こう側へ投げ出して、ぶらぶらと不規則に揺らしている。その背中をじっと見つめながら椎名翼は彼女の次の言葉を待っていた。いつも彼女の紡ぐ言葉は予測不可能で、一通り話が終わるまで口を挟めない。自分の考えていることとはまったく正反対のオチが待っていたりするのだ。 「例えば仮にあたしと椎名先輩が付き合ったとして、さてあたしたちは周りの均衡を崩さずにいられるでしょうか」 空が高い。秋から冬にかけての空は夏のそれとは随分と異なって見える。見事なまでの快晴に、突き抜けるような青という言葉を椎名は思い出していた。給水タンクに預けていた背中を少し浮かしながら未だ振り返りもせずにゆらゆらと揺れている少女を見る。、黒川柾輝の幼馴染の少女だ。 「別に崩すわけじゃないんじゃない」 話にひと段落が着いたと判断した椎名は、なるべく短めに思ったことを告げようと、言葉を選んだ。木枯らしの吹く屋上はお世辞にも快適とは言えなくて、思わず顔をしかめてしまう。椎名の言葉を受けてはそうですねえだなんて曖昧な台詞を吐いて、そこでやっとちらりと彼を振り返った。それでもまたすぐに視線は外へと向けられる。先にはただのどこにでもあるような住宅街しか広がらないはずなのに、一体何がそんなに面白いのだろうと椎名は思うけれど、どういうわけか彼女は屋上に来るといつもそちらを見遣っている。 「あくまであたしの考えですが。やっぱり均衡は崩れてしまうと思います」 「例えば?」 例えば、と再び彼女は言った。 「例えば仮にあたしと椎名先輩が一緒に帰っていることろを見かけたとして、あたしたちは気にしなくとも、きっとマサキや畑さんなんかは気にして話しかけて来ないと思います。例えば仮にあたしがクラスで六助に明日椎名先輩と出かけよっかな、なんて言ってしまったら、きっと彼は気にして次の日椎名先輩をサッカーの練習に誘ったりなんかしないと思います」 「付き合ってるんだから仕方ないだろ」 かしゃんと音を立ててがフェンスから身を引いた。授業開始を告げるベルが響き渡るけれど、二人とも教室に戻るようなそぶりは見せなかった。校庭からは体育教師が鳴らしたホイッスルの高めな音が風に乗って聞えてくる。椎名はがぼんやりとした表情で自分を見ていることがなんとなく居心地が悪くて、ふいに視線を彼女から外した。吹き抜ける風は相変わらず冷たい。 「あたしはそれがたまらなく嫌です」 それはどれくらい?と椎名が尋ねると、死にたいくらいですと彼女は答えた。その表情は何故か穏やかな笑みを浮かべていて、椎名にどうしようもないくらい苛立ちを覚えさせた。彼はゆっくりとした動きで立ち上がると、踵を踏み潰した上履きで地面をこするの隣へいつもより幾分か大股で移動する。ほとんど身長の変わらない彼女が横でひとつくしゃみをする。「寒いの」、ポケットの中で温まった左手を椎名はの頬に当てた。その手をやんわりと払いのけると、は寒くないですよと笑う。 眼下に広がる小さな校庭では、どこかのクラスが準備運動のために綺麗に整列していて、それがなんだか椎名の目にはとても滑稽に見えた。隣でもなんだか可笑しそうに顔を歪めているので、きっと彼と同じことを考えているのだろう。そんな校庭を取り囲むように紅葉した木々が立ち並んでいて、忙しなく季節は冬へと移行しているのだと強く感じた。赤や黄色に色づいた木の葉が木枯らしに吹かれて舞い上がる。椎名とのいる屋上よりも二階分下の教室のベランダにひらりと落ちた。 「あたしは十四年間柾輝との関係を保ってきたんです。それは幼馴染という関係であると同時に同級生という関係でもありました。親友という関係でもありました。お互いに一番大切な人という関係でもありました」 今度ばかりはの言いたいことがなんとなく想像できて、椎名はだから何なのと口を挟む。滅多にの話を遮ることは無い椎名だから、は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。 「そうきますか」 「、不変のものなんてこの世には何一つありはしないよ」 「それはつまり椎名先輩があたしのことを好きだと言ってくれるその感情も含め、ですか」 「それも含め、だ。僕のこの感情だって日々変化してるよ」 「どんな風に?」 一層強く風が吹く。椎名との髪を攫って風は北から南へ一気に吹きぬけた。ガサガサと何がそんなに飛んだのか、どこかでそんな物音がする。 冷えて指先が赤くなった右手に、は息を吹きかけてみるけれどほとんど効果は成さなかった。仕方なしに制服のスカートのポケットに両手を仕舞い込む。 椎名はそんなの一連の動きを見遣ってから、息を一つ吐いて口を開いた。 「昨日よりも今日の方が好きになる」 映画のワンシーンのように真剣な顔でそんな言葉を吐き出した椎名に、はさすがに面を喰らった。そういうとっておきの言葉は本当に大切な人へ取っておいた方がいいのではないかとそんなことを思うけれど、きっと椎名にそう言おうものなら一笑されるに違いない。代わりにありがとうございますと呟くと、椎名の眉は不快そうに顰められた。 「思ってもないこと言われても嬉しくないんだけど」 「失礼ですね、人の好意を邪険に思うほどあたしはひどい人間に育ったつもりはありませんよ。椎名先輩の好意は純粋に嬉しく思ってます」 それでもやはりどこか胡散臭く感じてしまうのは、きっとのこの話し方のせいなのだろう。抑揚がなくて淡々と業務連絡でもするように語る彼女の言葉は、ともすれば冷たい印象を他人に与えかねない。それが彼女のスタンスであって、決して感情に乏しいわけではないことを椎名は分かっているつもりだが、それでもああいう話をしている以上、どうしても好意的には受け取れなかった。あるいは黒川ならばそんなこともないのだろうか。 ふいに椎名がの片腕をスカートのポケットから引き抜いて自分の手を重ねる。は一瞬腕に力を込めて逆らうような素振りを見せたけれど、結局すぐに力を抜いてそのまま椎名に自分の手を委ねた。お互いに伝わる体温はほんのりと温かい。 「それでも、」 晴れ渡った空を見上げながらぽつりとは呟いた。対して椎名は自分の足元をに視線を遣りながら少し強めの声で、何、と言い返す。 「それでもやっぱり、あたしにはまだ柾輝の方が必要なんです」 小さいけれど、どうしようもないくらい強い想いが込められた言葉だった。 マサキと過ごしてきた子に椎名は簡単には選べないと思う。 09年11月22日 夜桜ココ |